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2005年2月

2005.02.28

現実ならざる古池

 新しい発見のある本、固定観念を覆してくれる本と出会うことは、人生の大きな喜びの一つだ、なんて言ったら、ちょっと大袈裟でしょうか?
 今回も俳句の本。長谷川櫂『俳句的生活』(中公新書)より。

 古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉
 この高名な句は通常「古池に蛙が飛び込む水の音が聞こえる」と解されているのであるが、これは切れ字「や」の働きを見落とした解釈である。(中略)
 そうではなくて、この句は「どこからともなく聞こえてくる蛙が飛び込む水の音を聞いているうちに心の中に古池の面影が浮かび上がった」といっているのである。ここで「や」は現実の世界で起きている「蛙飛びこむ水の音」とは切り離された心の中に現実ならざる古池を浮かび上がらせる働きをしている。

 うーん、なるほど。そういう読みがあったか。この句の初案が「山吹や…」であったのを、後に「古池や…」に改作した、などという成立事情も含めて考えると、確かに古池は眼前のものではないという解釈は、当然のことと言えるかもしれません。では、巷に行われている解釈は、間違いということになるのでしょうか?
 たとえば、どこかの古寺の片隅に、いかにも芭蕉の句の蛙がひそんでいそうな池を見つけて、「古池や」という文句が思い浮かぶ。そして、その切れ字「や」の作り出す沈黙の空間に、現実ならざる「水の音」が響く、ということだってあり得ることだと思うのです。
 この問題については、もう少し考えてみたいと思うけれど、こんなことをいろいろな人と語り合うことができたら、それこそ人生の大きな喜びだなあ。

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2005.02.20

俳句が作れないとき…

 今日、『俳句って何?』っていう本を発見。

 この本は、俳句に関するさまざまな疑問にQ&A形式で答える、というもので、正岡子規以降の「100年の俳句のすべてに応え得る本だ」というだけあって、その質問の数はざっと見たところ300くらいはありそう。
 「なぜ俳句を作るの?」「俳句と短歌、俳句と川柳の違いは?」「季語って何?」「どうしたら俳句が上手になる?」というような難問にも、すべて1ページの半分くらいで答えを出してしまっているから、なかなか大胆。
 たとえば、

俳句はどう詠めばいいの?

の答えは…

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2005.02.15

自転車的

 昨年読んだ『自転車ツーキニスト』(疋田智、知恵の森文庫)も、どこかにを引いた記憶があるなあと思ってパラパラめくってみると、やっぱり引いてありました。

自分にとっての初めての自転車を思い出してみるといい。私のは17インチの子供用の青い自転車だった。休日に親父が荷台を支え、転びながら自転車の乗り方を覚えた。幼稚園の年少組の頃だったと思う。「手を離さないでよ」と言いながら、初めてチョロチョロと走り出した時は嬉しかった。気づくと支えて走ってくれているはずの親父は、遠く後方で笑っていた。

 遠く後方で笑っている親父、というイメージがなんともブンガク的で、いいなあ。僕の場合も、最初の自転車の思い出の中には父親が出てくる。たしか、中古の自転車を買ったかもらったかして、それに父親が白っぽいペンキを塗って、かえってかっこ悪くなってしまったのが、僕の最初の自転車だったと思う。
 さて、この本で著者が一番言いたいのは、自転車は「何に負担をかけるでもなく」(つまりエコロジカルで)「自分の力で、人間の移動範囲を画期的に伸ばす。実にすばらしい」技術である、ということ。そして著者が望んでいるのは、自転車くらいの便利さ、自転車くらいの快適さが一番いいのだ、ということに人々が気がつき、「自転車的な社会」が実現することだ。

今の不景気は、ひょっとしたら「撤退」するのにちょうどいいチャンスだ。便利さ追求から少し撤退してみるのだ。そしたら、本当に必要なものが見えてくる。本来の気持ちの良さが分かってくる。

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2005.02.13

未来への視力

 『超簡単!ブログ入門』(増田真樹、角川ONEテーマ21)は、題名から想像されるような単なるハウツーものではありません。ブログが社会を変えていく可能性について熱く語り、ホームページを作ろうと思いつつも一歩を踏み出せなかった僕の背中をポンと押してくれた、ありがたい本です。その「あとがき」に、音楽家坂本龍一からのこんなメッセージが紹介されていました。

「子供が生まれることによって、自分の未来への視力が増すのです。
子供が20歳になった時の世界や地球を想像しながら、今を考え、行動しなければなりません。」

 21世紀後半には地球の気温は3℃上昇する、というような話を聞いて、そのころまでは自分は生きていない、なんて思ってはいけないのですよね。
 このごろは近くのものにピントが合いにくくなった僕だけど、「未来への視力」は失わないようにしなくちゃ。

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2005.02.11

「させられている旅」と「している旅」

 5~6年ほど前、自分の家を建てようと思い始めてから、住宅関係の本、建築家の書いた本を随分読みました。
 中でも一番読んだのが宮脇檀。今回は『旅は俗悪がいい』(中公文庫)より。

旅をしたいときにしたいよう、気ままにできればどんなにいいだろう。

 そりゃそうですよねえ。

けれど、そんなことが私たちにできるわけがなく、現実には日々の仕事に追われ、旅はするのだがあくまで仕事でさせられているというものばかり。

 それでも、職場と家との往復ばかりの僕には羨ましい話。

そんな日常の旅を嫌がっているだけだと、人生絶望的になるばかりだから、何とかそういったさせられる旅を積極的にしている旅ふうに作り替えてしまおうというのが私の旅への姿勢なのだ。だから、新幹線ではもっぱら窓の外の風景の中から町つくりの法則を探りだし…

 これって、「旅」を「人生」に入れ替えても、全くその通りのことが言えるのではないでしょうか。「させられている人生」から「している人生」へ。ちょっと元気が出てくるでしょ?
 僕は電車の窓の外の風景から俳句の材料を探そうとするんだけど、なかなか見つからないんだなあ。

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2005.02.10

ピンクのラインマーカー

そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないと出来ないはずです。突き詰めて言えば、「おまえたち、俺を見習え」という話なのですから。要するに自分を真似ろと言っているわけです。

 昨年バカ売れした、『バカの壁』(養老孟司、新潮新書)を読んでみました。
 たまたま通りかかった古本屋の1冊100円の棚に入っているのを見つけましたが、中を開くとピンクのラインマーカーで線がびっしり引いてあるので、それは棚に戻してしまいました。
 その後、別の古本屋できれいなのを見つけて(300円でしたが)買っておいたのを、最近読んだのです。僕にとっては、脳の研究家である著者が、むしろ教育者の一人として教育について熱く語っている部分が印象に残りました。

何か借りがあれば恩義を返す。そこには明らかに意味がある。教育ということの根本もそこにあって、人間を育てることで、自分を育ててくれた共同体に真っ当な人間を送り出す、ということです。そしてそれは、基本的には無償の行為なのです。

 教師でなくても、親が子を育てるという行為も全く同じ事だろうと思います。
 ところで、あのピンクのラインマーカーは、どんなところに線が引いてあったんだろうと、今さらながらまたあの古本屋を訪ねてみたい気がしています。

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