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2005年3月

2005.03.26

先の丸い鉛筆で

 本を読んでいて、「そうだ、その通り!」と思ったところや、「そうか、そうだったのか!」と思ったところがあると、を引きたくなります。
 『読書力』(齋藤孝著)は、「そうだ、その通り!」の連続でした。たとえば、

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2005.03.21

電車に乗るときは

 一昨日の話。
 急な用事ができて最寄の駅の近くまで自転車で出かけたのですが、そこでは用が足せずに、電車で15分先の駅まで行かなくてはならなくなりました。ところが、電車の中で読む本を持っていません。たった15分でも本を持たずに電車に乗るのは耐えがたいので、近くの本屋に直行。こういうときは、つい慌ててつまらない本を買ってしまいがちなので、慎重に選びます。でも、ゆっくり選んでいる時間がない。小さな店の中を3周くらい回って、最後に「えいっ!」と覚悟を決めて(それほど大げさな話じゃないけど)選んだのが、岩波新書の『読書力』(齋藤孝著)。今回の選択は、大正解でした。

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2005.03.19

映画のごとく

 庭の梅が満開になりました。昨年に比べると2週間くらい遅いようです。出勤前のあわただしい中、デジカメで写真を撮りました。

umemankai

 職場へ向かう電車の中で角川の『俳句』(2月号)を開いたら、ちょうどこんな俳句が載っていました。

梅の咲く窓を映画の如く見る     岩田由美

 岩田由美さんは、「角川俳句賞」を受賞されて今活躍中の俳人ですが、受賞当時(平成元年)は僕と同じ職場に勤めていて、句会に誘って頂き、楽しい経験をさせてもらいました。
 岩田由美さんの、こんな作品が好きです。

葱だけを見てとんとんと葱刻む
 真つ青な木の実を持てばつめたさよ

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2005.03.13

行事の三条件

 今日は、しばらく飾ってあった雛人形を片付けました。

昔は(今もだと思いますが)「雛祭が終わったらお雛様を早くしまいなさい」といわれました。それは、もともと雛は人の穢れを移して川や海に流すものだったのに、そうしなくなったからだと言われています。

 これは、『季語の底力』(櫂未知子著)の中の一節です。櫂未知子は、行事は「続けやすいか」「楽しいか」「美しいか」の三つの条件のうち、二つを満たしていないといけないと考え、「節分の豆撒きは、継続しやすく、ゲームのようで楽しいという二点を備えており」、「雛祭は三条件のうち、「楽しい」「美しい」をじゅうぶんに満たしてくれています。」と書いています。そして、クリスマス、バレンタインデーについても、「それがどんなに軽佻浮薄に見えても、多くの人が選択し、続ける行事には何らかの理由があります。」と、肯定的です。
 明日は3月14日。今日は一緒に買い物に行った娘に、ちょっと贅沢なお菓子をねだられてしまいました。そりゃ、バレンタインデーの手作りチョコレート、美味しかったけどね。
 …ホワイトデーって、いったいなんなんだ?

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2005.03.12

まがっていいとも

 昨日「笑っていいとも」を見ていたら(なぜかそんな時間に家にいたわけですね)、タモリとゲストの片岡鶴太郎(友達じゃないけど、以下「鶴ちゃん」)が、ちょっと面白い事を言っていました。
 鶴ちゃんがどうして歳をとってから絵や書に手を染めるようになったか、という話のなかで、タモリ「書道は楷書から入るって言うのが間違っているんじゃないの?」 鶴ちゃん「お手本とおんなじに書けっていうのが変だよね、最初はもっと自由に書かせればいいのに」 タモリ「毛筆ってのができた時は、こんなにくねくねっていろいろ線が引けるのが嬉しかったはずだよね」というようなやりとりがあったのですが、僕も「そうだよなあ」と深くうなずいてしまったのでした。筆を持たせてまずは好きなようにやらせてから、頃合を見計らって「書道」にもっていくという手もあるよなあ、と。
 
 ここで話題は「書道」から「作文」へと、やや強引につながっていきます。

 斎藤美奈子『文章読本さん江』の中で、学校で習う「作文」や「読書感想文」が「学校という特殊な場所で独自の進化をどげ」「すっかり伝統芸能の域に達してしまった」ことを指摘していますが、「伝統芸能」と言えば「型」がつきものなわけで、たとえ心にもないことを書いていようと、その「型」にのっとって書くことが作文の「テクニック」ということになります。(斎藤美奈子は「型」という言葉は使ってなかったかもしれないけど)

 >学校作文のテクニックにひいでた要領のいい子どもはまんまと作文優等生になれ、「思った通り」「あるがまま」を馬鹿正直に遂行しようとした子どもは、いい点数が取れない。こんな虚偽にみちた作文教育を六年も九年も受けてきたら、学校作文不信にならないほうがおかしい。
 
 さて、ここから話題を今学校現場で取り沙汰されている「評価」の問題へとつなげる事もできるのですが、今日はここまで。
 

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2005.03.06

「最小限住宅」

 欲しいモノはいっぱいあるけれど、本当に必要なもの以外は持たないシンプルな暮らしに対する憧れもあります。
 3月4日の朝日新聞(夕刊)に「9坪ハウス」の記事が載っているのをみて、久しぶりに本棚の『9坪の家』(萩原修著)を取り出しました。子供のいる家族が「最小限住宅」のような小さな家に住もうとすれば、どうしても今の暮らしそのものを見直さなければなりません。

モノと収納との関係。これは、小さな家に住むために避けて通れない問題だ。どのぐらい収納スペースが必要なのか。
 収納特集は、インテリア雑誌の定番である。収納特集だと売れるらしい。…モノが多くてかたづかなくてこまっている人がたくさんいるのだ。

新しい生活を考えるときには、テレビや車などあってあたりまえなモノを、自分たちの生活に本当に必要かと疑ってみる必要があるのかもしれない。…気がつくと、いらないモノまで家に侵入しているかもしれない。これからは、勝手にモノを盗んでいくどろぼうよりも、勝手にモノをおいていく犯罪が増えるかもしれない。

 現に粗大ゴミの不法投棄などは、「勝手にモノをおいていく犯罪」ですよね。

ほんとうは、「適正な住居の大きさ」があるはずなのだ。地球環境や高齢化が問題になり、生活の在り方を根本的に見直す時期にきている今こそ、もう一度、1950年代に建築家が手がけた「最小限住宅」から学ぶ必要があるのではないだろうか。そこには、現代でも通用する住居の原型がいくつも発見できるだろう。すばらしい空間と、これからの生活様式。贅沢ではなく身の丈にあった暮らし。

 僕も3年前に家を建てた時、『9坪の家』のシンプルな暮らしぶりに共感して、いらないモノは極力捨てようと思ったけれど、これって難しいんですよね。でも、何かモノを買おうという時、「これって本当に必要なものかな?」と考える習慣はついたと思っています。

 それにしても、萩原さんの「9坪の家」の別名がふたりの娘さんの名前をとって「スミレアオイハウス」だというのは、驚いたなあ。我が家のふたりの娘も同じ名前なんです。

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