まがっていいとも
昨日「笑っていいとも」を見ていたら(なぜかそんな時間に家にいたわけですね)、タモリとゲストの片岡鶴太郎(友達じゃないけど、以下「鶴ちゃん」)が、ちょっと面白い事を言っていました。
鶴ちゃんがどうして歳をとってから絵や書に手を染めるようになったか、という話のなかで、タモリ「書道は楷書から入るって言うのが間違っているんじゃないの?」 鶴ちゃん「お手本とおんなじに書けっていうのが変だよね、最初はもっと自由に書かせればいいのに」 タモリ「毛筆ってのができた時は、こんなにくねくねっていろいろ線が引けるのが嬉しかったはずだよね」というようなやりとりがあったのですが、僕も「そうだよなあ」と深くうなずいてしまったのでした。筆を持たせてまずは好きなようにやらせてから、頃合を見計らって「書道」にもっていくという手もあるよなあ、と。
ここで話題は「書道」から「作文」へと、やや強引につながっていきます。
斎藤美奈子は『文章読本さん江』の中で、学校で習う「作文」や「読書感想文」が「学校という特殊な場所で独自の進化をどげ」「すっかり伝統芸能の域に達してしまった」ことを指摘していますが、「伝統芸能」と言えば「型」がつきものなわけで、たとえ心にもないことを書いていようと、その「型」にのっとって書くことが作文の「テクニック」ということになります。(斎藤美奈子は「型」という言葉は使ってなかったかもしれないけど)
>学校作文のテクニックにひいでた要領のいい子どもはまんまと作文優等生になれ、「思った通り」「あるがまま」を馬鹿正直に遂行しようとした子どもは、いい点数が取れない。こんな虚偽にみちた作文教育を六年も九年も受けてきたら、学校作文不信にならないほうがおかしい。
さて、ここから話題を今学校現場で取り沙汰されている「評価」の問題へとつなげる事もできるのですが、今日はここまで。
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