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2005年7月

2005.07.31

「断片」の楽しみ

 『自分づくりの文章術』(清水良典著)は、文章を書くにしても読むにしても、完成品に至らなかった「断章」、あるいは完成品の「部分」としての「断章」の価値を積極的に認め、それを楽しむことを勧めています。

完成した作品の全体から断片を見出して楽しむこと。その取り出された断片を「全体」の「部分」として位置づけるだけでなく、独立した文章の価値として読む。そういう読み方だって自由なのである。

 また、「読書ノート」について、次のように言っています。

いわゆる「読書ノート」というのは、本を読んだ感想が書き並べられているだけで、どんな文章を読んで感心したのかという肝心のテキストは見えてこない。読んだ直後はここがいいと思ってはっきり覚えていても、時間がたってから読み返そうと思って探したら見つからないことが多い。
 ページを折ったり付箋を付けたりするのも一つの方法だが、一番いいのは気に入ったテキスト本文を書き写しておくことだ。ほんの数行の部分でもいいし、途中が冗漫であれば「中略」を入れて端折ってもいい。つまり「断片」を選出するのだ。

 これは僕がこの「つまみ食い的」ブログを始めた時の発想と全く同じで、賛同者を得て励まされたような気分です。
 夏休みの宿題の定番になっている「読書感想文」についての著者の意見にも全く同感です。ほとんどの児童生徒にとって、「苦役」を強いる以外の何ものでもない「感想文」はやめて、抜粋を中心とした「紹介文」のようなものにかえた方がいいのではないかと、以前から思っています。
 
 それにしても、抜き出した「断片」がたくさん集まって「その目の付け所や趣味やセンスの集積が、ひとつの人格のような性格を帯びてくる」ということになると、他人の書いた「断章」の寄せ集めとはいっても人目にさらすのはちょっと気恥ずかしさを伴うことにもなってしまいますね。

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2005.07.30

一人称の問題

 どうして「が線を引いて…」ではなくて「が…」なのか?
 それは自分を「僕」と呼ぶのが僕にとって一番自然な言い方だからです。
 人前でちょっとかしこまって話をする時は「ワタシは」なんて言ってみるのですが、途中でつい「ボク」が出てしまってバツの悪い思いをしたことが何度もあります。無理をするのはやめておこうと思います。

 『自分づくりの文章術』(清水良典著、ちくま新書)を読んでいて、次のような箇所を見つけました。

私たちが日常用いている一人称は「ぼく」や「わたし」や「あたし」や「おれ」であって、「私(わたくし)」とは滅多に使わない。「私」はいわば“公”の挨拶や報告の場合にだけ、背筋を伸ばして口にする言葉だ。だから逆にいえば、公的な作文の場合には「私」と書けばよいわけだが、普段使っていない呼び方で自分を名乗るのは自分の本心や感情から、どこか乖離してしまう。「私」を選んだ瞬間に、人格も何かフォーマル・スーツを着込んだような“公的な自分”になってしまいそうな気がする。…私たちが文章で書くということは、このように出発点の一人称からすでに心理的な抵抗を含んでいる。

 著者は「私」を「妙に人工的で抽象的な一人称」だといい、さらに次のように続けています。

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2005.07.19

「山彦」

 串田孫一の随筆集『雑木林のモーツァルト』を読んでいます。繰り返し読みたくなるような、味わい深い文章が次々と現われます。仕事帰りに、疲れた体を電車のシートに埋めてこの本を開くと、何だかしみじみ癒されるような気持になります。

kusidamagoiti

 例えば、次の文章。「山彦」という題の文章の後半ですが、僕はここを何度も読んでしまいました。そして、僕自身はこの中に出てくる「ゆとりのない寂しい人達」と同類ではないだろうかと、ちょっと考え込んでしまったのでした。

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2005.07.09

追悼、串田孫一

 今日の朝刊の社会面に「串田孫一さん死去」の記事を見つけて、ちょっと寂しい気持ちになりました。
 国語の教科書に載っていた「表現のよろこび」というような題の随筆を読んだのが、おそらく串田孫一との最初の出会いだったのではないかと思います。 
 その後、山登りの楽しさに目覚め、大学では美学を勉強しようかなどと考えるようになった僕は、登山家の一面を持ち音楽愛好家でもある哲学者串田孫一を、最も魅力を感じる文筆家の一人として意識するようになりました。僕の本箱には『山のパンセ』『山の独奏曲』『若き日の山』『北海道の旅』などが深田久弥や辻まことと一緒に大切に並べてあります。
 その中の一冊、自然や芸術や哲学に関する文章を集めた『自然と美と心』という本の目次を見ると、「ユーモアにはざらざらした笑いはないはず」という題の上に鉛筆で丸印がついていて、本文を見ると、「真面目な態度とユーモアとは無関係なものではないということを認める僕は、ユーモアの入り込む余地のない真面目さは、やはり、あやしいものと思わざるをえない」というところに線が引いてあります。さらにその先から線の引いてあるところを拾ってみると…

ユーモアはいつの世にも大切なものである。それは人間がお互いに慰め合う知恵である。深い深いものである。その深いところに、人間の気まじめな営みがあり、善意の微動があり、お互いに過去を許し合う寛容があり、誰もが陥りやすい悲しみから救い出そうとする努力があり、怒りを鎮めようとするやさしさがあり、とげとげしい愚痴をかるく、やわらかく撫でてやろうとする同情がある。もっともっとたくさんの人間の理想的な心情の動きがひそんでいるはずである。

ある人々はユーモアをひたすらに排除する。文藝の中でも、日本流に一つの伝統さえ築きながら育ってきた有用なユーモアの要素が確かにあるが、それさえも悪ふざけのように思いちがいして、下らないものとして排除する傾向が僕には感じられてならない。…大衆文学とか純文学とかいう区別があっても悪いことではなさそうだが、おかしくなるようなことが書いてあるために、その作品から点を引く傾向がもしあるとすれば、それは悲しいことである。

 おそらく、自分には哲学を勉強する頭はないと諦め、井伏鱒二の初期の短篇や深沢七郎の作品と出会い、卒論は「文学とユーモア」というようなテーマで書こうかと考え始めた頃に読んで線を引いたのでしょう。

 誠実で感性豊かな思索家を失ったことはとても残念ですが、四百点を超える著作が遺されたことを、喜びたいと思います。

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