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2005.07.19

「山彦」

 串田孫一の随筆集『雑木林のモーツァルト』を読んでいます。繰り返し読みたくなるような、味わい深い文章が次々と現われます。仕事帰りに、疲れた体を電車のシートに埋めてこの本を開くと、何だかしみじみ癒されるような気持になります。

kusidamagoiti

 例えば、次の文章。「山彦」という題の文章の後半ですが、僕はここを何度も読んでしまいました。そして、僕自身はこの中に出てくる「ゆとりのない寂しい人達」と同類ではないだろうかと、ちょっと考え込んでしまったのでした。

山で知り合った樵夫がこんな話を聞かせて呉れた。まだ極く幼い頃、父に連れられて谷を遡り、途中から細い道を辿って山腹へと登って来た。
 水筒の水を飲ませて貰っている時、谷を隔てた山の方へ向かって、出来るだけ大きな声で、万歳と叫んでみろと言われた。両手を口に宛がって言われた通りに叫んでみると、ちょっと間を置いて、向こうから誰かが万歳と言った。子供の声のようだった。
 その時の驚いた気持をうまい言葉で話して呉れた。向かいの山の中腹に、何の木だったのか一本目立ってこんもり葉を茂らせている木があって、どうもそのあたりに、自分の言うことをそっくり真似して言い返す子供がいるに違いないと思った。そこで想い浮かぶことを次々に叫ぶとその通りに言い返すばかりだった。何処にいるんだ、と半ば憤然と怒鳴っても、此処にいるとか、口惜しかったら探してみろ、などという返事は絶対にしない。
 八の字を寄せて頻りに不思議がっている子供を、父親が傍らで眺めながら、如何にも満足そうに笑いを浮かべている情景が私にははっきり見えた。
 何かの折にこの話を、小さい子供を持っている二、三人の人に話したところ、その中の一人が、父親はその場で幼い子供に、きちんと理屈を説明してやればよかったのに、と言い出した。山の樵夫では、音波の反射する現象についての知識は持っていなかったろう、と見下した言い方をする者もいた。
 何だか、ゆとりのない寂しい人達のように思われた。そうなると私が喋ったことは、何の意味もない、極く下らない話に過ぎなかったことになってしまう。
 不思議な現象を親から教えられ、どうして? 何故? といきなり尋ねない幼い子供と、仮に説明してやれても黙って満足している父親との組み合わせが羨ましかったのである。
 子供はいつか山彦という自然現象が、何となく判ってしまう時がくるだろうが、その時子供は、大切な幸福を一つ失ったことになるのかも知れない。
 そう思ったが彼らの前では黙っていた。

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コメント

もう昼に少し話をしてしまいましたが、「山彦」の文章は串田らしくないと感じました。「寂しい人々」の部分はずいぶんと作為的に思えましたし、批判がましくなってしまって、彼らしくないと思ってしまったのです。「そんな父子が羨ましかった」で終わって欲しかったですね。まあ、かの串田孫一にやれ「力を失った」だの、いろいろけちをつけるなんてのは、とんでもないことなのですが、一時期はまっていただけに少々思い入れが強く、自分なりの串田像ができてしまっているようです。長く書いている作家をはまって読んでいると、こんなふうに感じることがないですか?話は飛ぶようですが、音楽にしてもそうですよね。サザンやユーミンなどは例外的にすごい!と思ってしまいます。さて、長く教員をやっている自分はいったいどうなっているのでしょうか?どうなっていくのでしょうか?

投稿: ヨッシー | 2005.07.27 16:10

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