一人称の問題
どうして「私が線を引いて…」ではなくて「僕が…」なのか?
それは自分を「僕」と呼ぶのが僕にとって一番自然な言い方だからです。
人前でちょっとかしこまって話をする時は「ワタシは」なんて言ってみるのですが、途中でつい「ボク」が出てしまってバツの悪い思いをしたことが何度もあります。無理をするのはやめておこうと思います。
『自分づくりの文章術』(清水良典著、ちくま新書)を読んでいて、次のような箇所を見つけました。
>私たちが日常用いている一人称は「ぼく」や「わたし」や「あたし」や「おれ」であって、「私(わたくし)」とは滅多に使わない。「私」はいわば“公”の挨拶や報告の場合にだけ、背筋を伸ばして口にする言葉だ。だから逆にいえば、公的な作文の場合には「私」と書けばよいわけだが、普段使っていない呼び方で自分を名乗るのは自分の本心や感情から、どこか乖離してしまう。「私」を選んだ瞬間に、人格も何かフォーマル・スーツを着込んだような“公的な自分”になってしまいそうな気がする。…私たちが文章で書くということは、このように出発点の一人称からすでに心理的な抵抗を含んでいる。
著者は「私」を「妙に人工的で抽象的な一人称」だといい、さらに次のように続けています。
>日本語のように一人称自体が相手に応じてコロコロ替わるような言語の国では、世間向けの“顔”として、日常の使用とは別個の一人称を用意する必要があったのだ。かくして、スーツや晴れ着のような「公」の自己表現という役割を「私」は担うようになった。「私」という一人称は、それを用いて文章を書くということで人々が一種の表現の社交界に出入りする手形の役割を果たしてきたのである。
文章の「私」が、どこか「借り物」くさいのは当然である。
もちろん、普段から「私」を用いている人にとっては文章においても「私」は自分を表す言葉として何の不自然も感じないでしょう。そういう点からすると、「私」を日常的に用いることの多い女性のほうが、「私」を用いて文章を書くときの抵抗感が少ないのではないかと想像するのですが、どうなんでしょう?
ところで、この一人称の問題に絡んで思い出されるのは、南木佳士の短篇「ウサギ」です。この小説は一人称の語りというスタイルをとりながら、その語り手である自分を表現する言葉が「私」でもなく、「僕」でもない。それらが一切用いられていないのです。これは著者の何らかの方法意識によって意図的になされたことに違いないのですが、このことについて著者自らが何か語っている文章があるならば、ぜひ読んでみたいと思っています。
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