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2005.07.09

追悼、串田孫一

 今日の朝刊の社会面に「串田孫一さん死去」の記事を見つけて、ちょっと寂しい気持ちになりました。
 国語の教科書に載っていた「表現のよろこび」というような題の随筆を読んだのが、おそらく串田孫一との最初の出会いだったのではないかと思います。 
 その後、山登りの楽しさに目覚め、大学では美学を勉強しようかなどと考えるようになった僕は、登山家の一面を持ち音楽愛好家でもある哲学者串田孫一を、最も魅力を感じる文筆家の一人として意識するようになりました。僕の本箱には『山のパンセ』『山の独奏曲』『若き日の山』『北海道の旅』などが深田久弥や辻まことと一緒に大切に並べてあります。
 その中の一冊、自然や芸術や哲学に関する文章を集めた『自然と美と心』という本の目次を見ると、「ユーモアにはざらざらした笑いはないはず」という題の上に鉛筆で丸印がついていて、本文を見ると、「真面目な態度とユーモアとは無関係なものではないということを認める僕は、ユーモアの入り込む余地のない真面目さは、やはり、あやしいものと思わざるをえない」というところに線が引いてあります。さらにその先から線の引いてあるところを拾ってみると…

ユーモアはいつの世にも大切なものである。それは人間がお互いに慰め合う知恵である。深い深いものである。その深いところに、人間の気まじめな営みがあり、善意の微動があり、お互いに過去を許し合う寛容があり、誰もが陥りやすい悲しみから救い出そうとする努力があり、怒りを鎮めようとするやさしさがあり、とげとげしい愚痴をかるく、やわらかく撫でてやろうとする同情がある。もっともっとたくさんの人間の理想的な心情の動きがひそんでいるはずである。

ある人々はユーモアをひたすらに排除する。文藝の中でも、日本流に一つの伝統さえ築きながら育ってきた有用なユーモアの要素が確かにあるが、それさえも悪ふざけのように思いちがいして、下らないものとして排除する傾向が僕には感じられてならない。…大衆文学とか純文学とかいう区別があっても悪いことではなさそうだが、おかしくなるようなことが書いてあるために、その作品から点を引く傾向がもしあるとすれば、それは悲しいことである。

 おそらく、自分には哲学を勉強する頭はないと諦め、井伏鱒二の初期の短篇や深沢七郎の作品と出会い、卒論は「文学とユーモア」というようなテーマで書こうかと考え始めた頃に読んで線を引いたのでしょう。

 誠実で感性豊かな思索家を失ったことはとても残念ですが、四百点を超える著作が遺されたことを、喜びたいと思います。

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コメント

なんとも・・!串田孫一の死亡記事はわたしにとっても、珍しくインパクトのあるものでした。そう、実は私がもっとも読んだ作家でしたから。学生時代にはまりまくって、50冊を越える本がいまでも、私の書棚に並んでいますよ。博物誌、随想集まもちろん哲学散歩などなど。彼は装丁や文章の中の漢字なども視覚、感性に訴えるものとして考えていたようですね。好きな本の一つに「山のパンセ」(このシリーズで3冊でていますが)があります。その箱の折り込み扉っていうのかな、そこに「寂しい山へ、黙って登って下さい。」ということばが書いてあります。これにはしびれました。就職して10年くらいまでは良く読んでいたのですが、次第に離れました。「もう登らない山」1992年がおそらく最後かな?串田氏も次第にその力を失い、こちらもみずみずしい感性を失ったように思っています。そう感じたときの、なにやら寂しい思いをよく覚えています。いつかゆっくり話しましょう。

投稿: yossi | 2005.07.12 23:11

 50冊以上も読んでいるとは、すごいですね。僕の本箱にもこれから少しずつ増えていくと思いますけど。
 今読んでいるのは1993年の発行の『雑木林のモーツァルト』。実に味わい深い文章が並んでいて、通勤の電車の中でこの本を広げると、最高に幸せな気分になります。

投稿: mf | 2005.07.13 21:51

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