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2005年8月

2005.08.31

「中公新書」にもハズレが…

 貴重な時間を無駄にしてしまったのかもしれません。
 正高信男『考えないヒト』のことです。
 「はじめに」の中には、「専門的知識を駆使して、実証的な立場から分析する機会が与えられたことを、素直に喜んでいる。」とあるかと思うと、同じページに「一連の推測がまたったく私の見当はずれである可能性も大いにある。だが趣味でしている作業なら、的はずれであったとしてそれが益にならないとしても、またさして害になることもあるまいと、執筆した次第である。」と書いてあるのですから、ひどいと思いませんか? ですから最初からこれは眉唾物かも、という警戒心はありました。しかも「はじめに」の最後は、「この本を手に取られた方は、宝くじでも買ったつもりで、つき合ってくださると幸いである。」と締めくくっているんですよ!

 さて、前回の記事で取り上げた部分のように、「なるほど」と思いながら読んだ箇所も少なからずあったものの、肝心なところではやはり説得力に欠ける内容だったと言わざるを得ません。たとえば、

>(ケータイ人間とは)ネット上においてと、ネットを介さない、いわゆる日常の生活においてで、対極をなすような対照的な生活をめざしている印象を持つ。
 その典型が、異性との交渉の場面で見られる。つまり、現実では散文的な性関係を維持する一方、ネット上では純愛に近いロマンスを展開する。あえて乱暴な表現をとるならば、現実にはヒトとしての動物的な振る舞いに徹し、生物としての欲求の充足をめざす。他方、ネット上では文化的行動を志向するとも言い換えることができるだろう。前者の状況では、身体的行動をとり、後者では精神的な願望を充たそうとするともいえる。

 これでは、現代人の生態の捉え方があまりにも「乱暴」に過ぎると感じてしまうのですが、どうでしょう。
 今回はうっかり「中公新書」の中のハズレくじをひいてしまったような気がしています。
 本物の宝くじ買った方が良かったかな…

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2005.08.25

心とコミュニケーション

 ある本を読んでいてわからなかった場所の意味が、別の本を読んでいてわかったという経験、ありませんか?
 今日の僕は、まさにそんな経験をしました。

 『考える人』という雑誌の最新号の特集(「心と脳」をおさらいする)の中に、「心は、自分が内省するためだけに生まれたのではなくて、社会におけるコミュニケーションにその源流があるのではなかろうか。(甘利俊一)」という記述があるのですが、その前後をよく読んでも具体的なイメージが湧かないためにどうしてもすっきりわかったという気持ちになれませんでした。

 ところが、次に今日買ってきたばかりの『考えないヒト―ケータイ依存で退化した日本人』(正高信夫著、中公新書)を読み始めるとすぐに次のような箇所にぶつかり、さきほど引っかかっていた部分がスッとわかったような気がしたのです。それは、チンパンジーがニホンザルと異なり、手に入れた食物を自分より劣位の個体に分け与える事によって平等主義を遵守しようという「気配り」を見せるという記述のあとに続きます。

>(ニホンザルが生存のために「仕方なく」みんなと一緒にいるのに対して)チンパンジーは群れに「好んで」加わっている。それは、「気くばり」してくれるからにほかならない。
 さらに、「気くばり」してもらうことをうれしいととらえる感受性が、気くばりする意識とともに、社会性のもとを形成する。単に食物が手に入ってありがたいというのではなく、互助的交渉ができることそのものをエンジョイできるようになったとき、人間的な社会が作り上げられる基礎が整ったのだろう。

 これはまさに先ほどの、「心」の源流が「社会におけるコミュニケーション」にあるという説明の具体例になっているではありませんか。考える人』を読んでいてわからなかったことが考えないヒト』を読んでいてわかったのです!

 さらに僕は、読んだばかりの『もう登らない山』(串田孫一)の次の箇所を思い出しました。

私達が山へ画帳を携えて行ったり、写真機を用意して行ったりするのは、今は一つの山登りをする人たちに共通した習慣かもしれないが、山を歩きながら素晴らしい姿、珍しい山の自然に出会った時には、何とかしてこれを持ち帰りたいと、極く素直に思う。
 そしてそれを戻ってからゆっくり味わったり、親しい人達に見せながら、伝えたいと願う。その心は素朴で貴重である。

 確かに、人の心の動きというのは、その人の心の中だけで完結するものではないように思います。
 例えば登山者の視界に突然神々しい高峰の連なりが飛び込んできたとき、その登山者はきっと心の中で誰かに向かってその感動を語り始めることでしょう。その感動を共有したいと願う誰かに向かって。

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2005.08.19

キャンプの楽しみは…

 夏休みは家族で恒例のキャンプに行きました。
 キャンプといっても、車で行くお手軽オートキャンプですけどね。

camp

 キャンプの一番の楽しみは、テントを設営し終えたあとの冷たいビール!
 それから、ひんやりした山の朝の空気に包まれながらの読書。
 今年用意して行った本は串田孫一『もう登らない山』
 家族が寝ているうちに起き出して、携帯用ガスコンロでお湯を沸かしてコーヒーを飲みながら本を広げる、この幸せ! ところが今年は、さあ読もうというところで、子供たちももぞもぞと起き出して来て、残念、ほとんど読めませんでした。ああ、もっと早起きすればよかった!
 そんなわけで、結局はまたいつもの通勤電車の中で、ちょっと大きめのハードカバーの本を広げているのです。

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2005.08.08

元気の出る小説

 読むと元気が出てくる小説というのがあります。
 僕が読んだ中で、まず最初に思い浮かぶのが椎名誠の『銀座のカラス』。
 そして、今回読んだ南木佳士『医学生』も、その仲間に加えたいと思います。

説明すると長くなるので省くが、私は純文学と大衆小説の区別は明らかに存在すると思っている。芥川賞の対象になる作品と直木賞受賞作は違うのである。
 『医学生』は意識して大衆小説にした。なぜなら、病んだ私は気軽に読めるものが欲しかったからである。書きながら自分が安らぎたかったからである。
(「五年遅れのあとがき」より)

 たしかにこの作品は娯楽的な要素が強い。性的な関心をくすぐる部分も少々あって、筋は読者の期待にほぼ添うように進行します。著者はあとがきで「肩の力を抜き、己を救うためのユーモアを交えた小説を書きたかった」とも言っていますが、読んでいる方も、優等生とは言いがたい学生達がそれなりに前向きに生きる姿に共感し、ほっと救われる思いがします。
 四人の医学生のうちの一人、妻子もある二十八歳の今野修三はもと高校の教師ですが、生徒の死をきっかけに医者になる決心をし、学習塾をしながら医学部に通っています。その修三が同じ実習グループの雄二に「子供ができると何か変わりますか」と聞かれ、答えた言葉が印象的でした。

「そうだなあ。子供ができるとどこか深いところに安心感が生まれるな。動物として子孫を残せたっていう安心感かな。…安心感ていうのは停滞を意味するわけじゃないぞ。それをバネにして自分をもっと高いところに跳ね上げてくれるものになったりもするんだぞ。…」

 この『医学生』を読んで出てくる元気も、自分の人生もまあいい人生じゃないかという安心感から生まれるのかも知れません。

 こういう小説も、たまにはいいな。

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