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2005年10月

2005.10.31

「ローカル」という足場

 歴史の「進歩」を疑う、「正義」を疑う、「普遍」を疑う、「グローバリズム」を疑う…

 「環境」、「テロ」など山積する問題と格闘しながら生きていかなければならない僕たちに今、何よりも必要とされているのは、あたりまえと思わされていることを疑うこと、言い換えれば、自分たちの置かれている状況を相対化する視点を持つことではないでしょうか。
 内山節『「里」という思想』を読みました。筆者は群馬県上野村という「里=ローカルな場所」を確かな足場として、世界観を組み立て直そうとしているのです。それはすなわち、今なお僕たちを呪縛し続ける「近代」からの脱出の企てなのです。

近代的な発想は、グローバルな発想や思想、システムに価値があり、ローカル性に基盤においたものを、あたかも古い時代のものであるかのごとく軽視したのである。その結果が、浅い知識だけで生きる人間の頽廃を生んでいる、と最近になって気づくようになるまで。だから、私も、いまでははっきり言うことができる。人間は少なくとも一方に、ローカルな世界をとり戻さなければいけない、と。

経済の発展が環境の後退を招き、技術の進歩が人間の技や想像力を低下させたように、歴史はある部分だけみれば進歩し、また別の部分をみれば後退している。そのように展開しているだけである。歴史に進歩の法則などは存在しない。

資本主義のもとでは、正義はつねに勝利者のものである。市場では競争という名の戦いがくりひろげられ、その勝利者は、自分たちの経済システムや経営方針に、経済活動上の正義をみいだす。…この文明は、勝利することによって正義を手にしつづける。
 しかも戦後の世界は、第二次世界大戦を、ファシズム対民主主義の戦いと総括してしまった。そのことによって、戦争の勝利者に、絶対的な正義を与えてしまったのである。…
 こうして、経済の面でも、政治や軍事力の面でも、正義は勝利とともにあるという文明世界がつくりあげられたのである。…
 二十世紀の世界は、誰もがそれぞれの分野で勝利者になろうとし、勝つことによって正義を維持するかたちで展開した。このような世界のあり方が再び戦争を必要としているのだとすれば、検証されなければならないのは、私たちが身を置いているこの文明だという気が、私にはする。

>(たとえ平和のためであっても戦争を認めないという、戦後の日本的平和主義は)平和や正義のための戦争を肯定する「グローバル・スタンダード」の平和主義とは決定的に違う。…
 平和は、世界のさまざまな地域に暮らす人々の考え方や暮らし方を、お互いに尊重し合わなければ生まれない以上、平和に対する考え方も、多様なものを認め合わなければいけないのだと思う。

 僕にとってこの本は、自分なりにものを考え行動しようとする際の一つの足場となり得る本だと思いました。
 内山節に注目していきたいと思います。

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2005.10.25

そうだったのか!

 横浜シティ・シンフォニエッタの第10回演奏会は、大盛況のうちに終えることができました。
 今回のプログラムの作成は僕が担当したのですが、予算が少ないために印刷屋に出す事ができず、ほとんど手作りになってしまいました。その苦労して作ったプログラムがたくさん余ってしまうことになるのは実にもったいないことだと思っていたのですが、幸い多くのお客さんに来ていただき、さほど多くの残部を出さずに済みました。
 よかった、よかった。

 ところで今日、学校の図書室で『もったいない』という本(プラネット・リンク編、マガジンハウス)を借りて読んだのですが、実に驚くべきことが書いてありました。

日本人が1年間に
 使い捨てている割り箸は、
 約250億膳。
 96パーセントが、
 中国からの輸入です。
 割り箸に使われる木材の量は
 120平方メートルの一戸建て
 1万7000戸に相当します。

 僕は今まで割り箸は国産の間伐材を用いていると信じていたのですが、違うのですね。

輸入割り箸のほとんどは主に中国東北部でエゾマツやシラカバ、アスペンなどの天然林を伐採して作られていますが、一帯の樹木を樹齢などに配慮することなく一斉に伐採する「皆伐方式」をとっているうえに、その後の植林も十分に行われていないことから、森林の減少が進んでいます。

 中国の割り箸1膳が約1.3円なのに対し、国産は約5円だそうで、これでは間伐材の利用は進まないわけですね。やはり割り箸の使用は、環境のためには控えた方がいいということなのでしょうか。
 「お弁当に箸が入っていなかったので、割り箸を下さい」と言って職員室に来る生徒が毎日のようにいます。高校生のお子様を持つお母さん、お弁当に箸を入れ忘れないにしましょうね。(もっとも僕は、妻が作ってくれた弁当をよく家に忘れるけど…)

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2005.10.18

ハイドンとその「夫人」

 仕事の忙しさに加えて、僕の所属するオケ(横浜シティ・シンフォニエッタ=YCS)ttp://homepage2.nifty.com/ycs/index.htmlの演奏会が近づくにつれてその準備も忙しくなり、すっかりこのブログも更新が滞ってしまいました。

 この忙しい合間を縫って少しずつ読み進めてきたのが、『ガット・カフェ~チョロと音楽をめぐる対話』(鈴木秀美著)です。
 朝日新聞の読書欄の小さな記事でこの本を知り、書店に注文したら、こんな素敵な本が届きました。造本の美しさに見惚れてしgutcafeまいます。

 鈴木秀美はチェリストであり、ハイドンを中心に演奏をするオーケストラ・リベラ・クラシカの主宰者です。(と言っても、僕はハイドン愛好者であるにもかかわらず、迂闊にもこのオケの存在を知らなかったのですが…)そして、この本もまた、そのハイドンの魅力について存分に語ってくれています。たとえば初期の交響曲についてはこんな具合に…

第一ヴァイオリンだけでとても静かに始まる第6番《朝》の冒頭は、いかにもこれから朝日が昇ってくる一日の始まりを思わせるが、その序奏に続くアレグロは、管楽器達が一人ずつこちらを向いて手を振っているような音型が登場する。スコアを読んでいるだけでも思わず微笑んでしまいそうなものである。…ハイドンは、「習作的」な初期の作品を経て後期のマスター・ワークスへ「進歩」したのではなく、初期は初期で違う味わい、これらもまた素晴らしい作品なのである。

 本当にそうなんですよ。ハイドンは演奏するたび聴くたびに、至福の時をもたらしてくれて、裏切られたことがありません。以前、YCSで取り上げた第47番なんて、ニックネームも付いていない、まさに無名の曲ですが、演奏してみると実に味わいの深い曲で、ついでにその前後の曲もCDで聴いてみたら、それらがまたどれもそれぞれの魅力を持っているのです。
 上の引用部にある第6番というのは、僕のようなファゴット吹きにとってはいかにも「美味しそうな」ソロがあって、ぜひ吹いてみたい曲の一つですが、104番まであるハイドンの交響曲の中には、まだまだ「ご馳走」がたくさん隠れていそうです。

 ところで、この『ガット・カフェ』を読んでいて、ぜひ聴きたくなった作曲家がもう一人います。
 ボッケリーニです。
 著者は、チェロの師であるアンナー・ビルスマの次のような言葉を紹介しています。

「ボッケリーニの音楽はね、素晴らしく大きな時計屋に入ったようなものだ。大きな柱時計の振り子はゆったりと、壁の時計がコチコチ、小さな時計が卓上でチクタクチクタク……と何百何千もの針や振り子が動いて音を立てている。けれど、店の中は”静か”で、誰も動いてはいない……」

 時計といえば、有名な『時計』交響曲でなくても、ハイドンの音楽には時計の針の動きのような単純な音の列がしばしば見られ、その点でボッケリーニにも似た要素があるということでしょうか、ボッケリーニを批判的な意味で「ハイドン夫人」と呼んだヴァイオリニストもいたそうです。でも、僕にはその単純さが魅力に感じられてならないのです。
 僕はさっそく、Ensemble415というグループが演奏する「弦楽クインテットop.39」のCDを買って聴いてみました。まさに「音のある静かさ」という表現がぴったりの、心癒される音楽で、なんとも幸せな気分にさせてくれるのです。
 ハイドンにしても、ボッケリーニにしても、その中にまだまだたくさんの名曲が隠れていると思うと、ワクワクしますね。

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2005.10.05

『源氏物語』の主人公は?

 『源氏物語』の主人公はと訊かれたら、誰でも「光源氏」と答えるでしょう。
 でも、『紫式部のメッセージ』(朝日選書)の著者、駒尺喜美は断言します。

『源氏物語』の主人公は「女たち」である。

 光源氏は「どのように幸せに見える女も、内面は不幸だということを展開するための仕掛けの役割をになっている人物にすぎない」と、著者は言います。女たちを主人公に据えることによって、従来『源氏物語』の中で異質なものと受け取られてきた「宇治十帖」が書かれた必然性も理解できるのだと。そして、「宇治十帖」も含めた『源氏物語』全体に込められた紫式部の読者へのメッセージとは…

どのように善意の男、いい男と結ばれても女は不幸だ、ということを紫式部は書いたのである。これはもう、現代の認識でいえば、構造不幸、構造差別である。男性中心の社会構造の中では、人間関係、男女関係も男性中心、男性優位になってしまうのだ。
 紫式部は「構造差別」と考えていなかったとしても、〈結婚〉というものを、女の側から広く深く観察し、考えつめていって、内容的にはそこに到達したのである。男の世界と女の世界がいかにくいちがっているかということは、この社会がいかに男女分断の世界をつくり上げているか、そういう構造に組み上がっているか、ということなのである。

 著者は、光源氏の、薫の、匂宮の女性との交渉の場面における言動を具体的に取り上げつつ、いかに事が男性の都合のいいように運ばれていくか、また社会がそれを許す構造になっているかを明らかにしていきます。そして、そうした男性社会の本質を冷静に見つめた紫式部の、女性に向けてのメッセージを読み取ろうとするのです。
 面白い本です。『源氏物語』をちゃんと読んでみようという気になります。
 …でも、男性である自分が叱られているような気分になることも、確かです。

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