「ローカル」という足場
歴史の「進歩」を疑う、「正義」を疑う、「普遍」を疑う、「グローバリズム」を疑う…
「環境」、「テロ」など山積する問題と格闘しながら生きていかなければならない僕たちに今、何よりも必要とされているのは、あたりまえと思わされていることを疑うこと、言い換えれば、自分たちの置かれている状況を相対化する視点を持つことではないでしょうか。
内山節の『「里」という思想』を読みました。筆者は群馬県上野村という「里=ローカルな場所」を確かな足場として、世界観を組み立て直そうとしているのです。それはすなわち、今なお僕たちを呪縛し続ける「近代」からの脱出の企てなのです。
>近代的な発想は、グローバルな発想や思想、システムに価値があり、ローカル性に基盤においたものを、あたかも古い時代のものであるかのごとく軽視したのである。その結果が、浅い知識だけで生きる人間の頽廃を生んでいる、と最近になって気づくようになるまで。だから、私も、いまでははっきり言うことができる。人間は少なくとも一方に、ローカルな世界をとり戻さなければいけない、と。
>経済の発展が環境の後退を招き、技術の進歩が人間の技や想像力を低下させたように、歴史はある部分だけみれば進歩し、また別の部分をみれば後退している。そのように展開しているだけである。歴史に進歩の法則などは存在しない。
>資本主義のもとでは、正義はつねに勝利者のものである。市場では競争という名の戦いがくりひろげられ、その勝利者は、自分たちの経済システムや経営方針に、経済活動上の正義をみいだす。…この文明は、勝利することによって正義を手にしつづける。
しかも戦後の世界は、第二次世界大戦を、ファシズム対民主主義の戦いと総括してしまった。そのことによって、戦争の勝利者に、絶対的な正義を与えてしまったのである。…
こうして、経済の面でも、政治や軍事力の面でも、正義は勝利とともにあるという文明世界がつくりあげられたのである。…
二十世紀の世界は、誰もがそれぞれの分野で勝利者になろうとし、勝つことによって正義を維持するかたちで展開した。このような世界のあり方が再び戦争を必要としているのだとすれば、検証されなければならないのは、私たちが身を置いているこの文明だという気が、私にはする。
>(たとえ平和のためであっても戦争を認めないという、戦後の日本的平和主義は)平和や正義のための戦争を肯定する「グローバル・スタンダード」の平和主義とは決定的に違う。…
平和は、世界のさまざまな地域に暮らす人々の考え方や暮らし方を、お互いに尊重し合わなければ生まれない以上、平和に対する考え方も、多様なものを認め合わなければいけないのだと思う。
僕にとってこの本は、自分なりにものを考え行動しようとする際の一つの足場となり得る本だと思いました。
内山節に注目していきたいと思います。
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