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2006.01.14

AならばBなる論理

 『国家の品格』(藤原正彦著、新潮新書)を読みました。
 本の帯に「跪く心を忘れない」とか、「武士道精神の復興を」とか、「家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛」などどいうフレーズが並んでいるのを見て、これはちょっと警戒してかからなければならない本かな、と思いましたが、読み終えてみて「言わんとしている内容にはおおむね賛成」という感想を持ちました。
 なるほど、と思ったのは次のような所。「論理」が万能でないという主張は、この本の柱の一つなのですが、その理由のひとつを次のように説明するのです。

論理というものを単純化して考えてみます。まずAがあって、AならばB、BならばC、CならばD…という形で、最終的に「Z」にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして「Aならば」という場合の「ならば」が論理です。…
 ところがこの出発点を考えてみると、AからはBに向かって矢印が出ていますが、Aに向かってくる矢印はひとつもありません。出発点だから当たり前です。
 すなわち、このAは、論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そして、この仮説を選ぶのは論理ではなく、主にそれを選ぶ人の情緒なのです。…
 情緒とは、論理以前のその人の総合力と言えます。その人がどういう親に育てられたか、…どのような小説や詩歌を読んで涙を流したか、…こういう諸々のことすべてがあわさって、その人の情緒力を形成し、論理の出発点Aを選ばせているのです。

 著者は、古来より日本人がこの論理の出発点を正しく選ぶための優れた情緒を持っているということを再三述べています。そしてそのひとつが自然に対する繊細な感受性であると言い、その例として芭蕉の句「枯れ枝に烏の止まりたるや秋の暮」と「古池や蛙飛び込む水の音」を挙げています。こうした句を成り立たせている日本人特有の感性は、世界に誇り得るものなのだ、日本人よ自信を持て、と著者は主張するのです。
 ところで、和田悟朗という俳人の作品に

AならばBなる論理秋の暮

という句があります。この作者もまた論理というものに対して懐疑的なのでしょうか。一句の中に理性と感性とを対比させて、理性の時代の終焉を予感させようとしているとも読めます。同じ作者の「蚊柱を連れて気圧を感じ居る」「消しゴムや自ら消えて夏果つる」というような句も、独特の感性を感じさせる面白い句だと思います。

 さて、話を『国家の品格』に戻しますが、この本、かなり好意的に受け止められているようで、いくつかのブログに目を通しましたが、たとえば「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけです。それ以外の意味での自由は、この言葉もろとも廃棄してよい」などという過激な発言にいちいち目くじら立てているコメントは見つかりませんでした。このことを国民が成熟している証として喜んでいいのか、憂うべき兆候と捉えるべきなのか、量りかねているところです。

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