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2006年1月

2006.01.25

深夜、「は」と「と」のビミョーな違いについて悩む。

 前回の記事で、『国家の品格』の著者・藤原正彦が、「論理」が万能でないのはその出発点を選ぶのは「感性」だからで、その「感性」において日本人が優れていることを、俳句を引き合いに出して論じていると書きましたが、そもそも俳句というものは、「論理」によって成り立つことを極端に嫌うようです。
 俳句の本を読んでいてよく目にするのは、この句は「理屈」だからダメ、「因果関係」だからダメという言葉です。例えば、昨年の『俳句』11月号誌上で、「第51回角川俳句賞選考座談会」が行われていますが、その受賞候補者の作品「天の路混み合つてをり残る鴨(荻原都子)」について、長谷川櫂が

天の路が混み合っているから鴨が残っているという、理屈の句ですね。こういうのはちょっとだめだ。

と言ったり、現代俳句に多用されがちな接続助詞の「て」「ば」に関して宇多喜代子が

私は「何々すれば」の「ば」が嫌い。こうすればこうなったって、因果をね。

と言ったり、という具合です。これらの「理屈」「因果」は、「論理」という言葉に置き換えることができそうです。俳句に詠まれた二つの事柄が、「論理」でつながってはダメ、さらに言えば、頭で作った句はダメ、ということにもなります。
 『俳句』1月号の鼎談では、「凌霄の百の落花や地震来るか(小林篤子)」という句についての評価が分かれています。出口善子は「斬新な感じ」「ノウゼンの花はもちろん地震とは関係ないのですが、こういう美しいものを見たときの、美しいものの中にある不安要素みたいなもので予兆を感じる。そういう感性を私は評価したい」と、これを「感性」による句と評価する一方で、千葉皓史はこれを「因果を感じなくもない」から採らないと言っています。つまりノウゼンカヅラの落花と地震との間に「論理」的な結びつきの匂いを嗅ぎとってしまうと、これは頭で作った句だからいただけない、という評価になってしまうのです。この句の場合は、なかなか微妙だと思いますが。
 ところで、先ほどの「第51回角川俳句賞選考座談会」を読んでいて、僕にはわからなかったことがあります。「雛の間に妻と離れて眠りけり(広瀬敬雄)」について、長谷川櫂が、「〈妻離れて〉となると理屈ですね」と言っているのですが、どうしてこれが「理屈」ということになるのか、今の僕にはどうも理解できないのです。「離れて」だったら理屈ではないということのようなのですが…
 「ビミョー」だと思いませんか?

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2006.01.14

AならばBなる論理

 『国家の品格』(藤原正彦著、新潮新書)を読みました。
 本の帯に「跪く心を忘れない」とか、「武士道精神の復興を」とか、「家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛」などどいうフレーズが並んでいるのを見て、これはちょっと警戒してかからなければならない本かな、と思いましたが、読み終えてみて「言わんとしている内容にはおおむね賛成」という感想を持ちました。
 なるほど、と思ったのは次のような所。「論理」が万能でないという主張は、この本の柱の一つなのですが、その理由のひとつを次のように説明するのです。

論理というものを単純化して考えてみます。まずAがあって、AならばB、BならばC、CならばD…という形で、最終的に「Z」にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして「Aならば」という場合の「ならば」が論理です。…
 ところがこの出発点を考えてみると、AからはBに向かって矢印が出ていますが、Aに向かってくる矢印はひとつもありません。出発点だから当たり前です。
 すなわち、このAは、論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そして、この仮説を選ぶのは論理ではなく、主にそれを選ぶ人の情緒なのです。…
 情緒とは、論理以前のその人の総合力と言えます。その人がどういう親に育てられたか、…どのような小説や詩歌を読んで涙を流したか、…こういう諸々のことすべてがあわさって、その人の情緒力を形成し、論理の出発点Aを選ばせているのです。

 著者は、古来より日本人がこの論理の出発点を正しく選ぶための優れた情緒を持っているということを再三述べています。そしてそのひとつが自然に対する繊細な感受性であると言い、その例として芭蕉の句「枯れ枝に烏の止まりたるや秋の暮」と「古池や蛙飛び込む水の音」を挙げています。こうした句を成り立たせている日本人特有の感性は、世界に誇り得るものなのだ、日本人よ自信を持て、と著者は主張するのです。
 ところで、和田悟朗という俳人の作品に

AならばBなる論理秋の暮

という句があります。この作者もまた論理というものに対して懐疑的なのでしょうか。一句の中に理性と感性とを対比させて、理性の時代の終焉を予感させようとしているとも読めます。同じ作者の「蚊柱を連れて気圧を感じ居る」「消しゴムや自ら消えて夏果つる」というような句も、独特の感性を感じさせる面白い句だと思います。

 さて、話を『国家の品格』に戻しますが、この本、かなり好意的に受け止められているようで、いくつかのブログに目を通しましたが、たとえば「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけです。それ以外の意味での自由は、この言葉もろとも廃棄してよい」などという過激な発言にいちいち目くじら立てているコメントは見つかりませんでした。このことを国民が成熟している証として喜んでいいのか、憂うべき兆候と捉えるべきなのか、量りかねているところです。

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2006.01.06

駅伝三昧

 この正月休みは天気もパッとせず風邪気味という事もあって、家にこもりがちで、2日3日は箱根駅伝のテレビ中継をほとんど観てしまいました。横浜駅近くまでに応援に行った年もあるのですが、やはりこれはテレビで見たほうがレース展開がよくわかって面白いですね。
 駅伝観戦が楽しかったので、本屋で『駅伝がマラソンをダメにした』(生島淳、光文社新書)を見つけたときは、迷わず買ってすぐに読んでしまいました。
 ただ走って襷を渡すだけという単純極まりないスポーツの、奥深さ・面白さを教えてくれる本です。駅伝選手は試走をするのだろうか、5区の距離を伸ばしたのはなぜだろうか、マラソンのペースメーカーって何者なんだ、といった疑問にもしっかり答えてくれています。
 それにしても、「駅伝がマラソンをダメにした」とは、購買欲をそそろうとする意図が見え見えのネーミングですが、ではいったい駅伝の抱える問題とは何なのか。

問題は駅伝の競争力が、そのまま陸上の国際的な競争力につながらないことにある。駅伝は英語でも「EKIDEN」、日本独特の種目だから、いくら駅伝で強くなっても、それがトラックや他のロードレースの結果に結びつかない。そうなると世界陸上選手権やオリンピックで、日本選手が上位に食い込むことは難しくなってしまう。…
 じゃあ、開き直って駅伝を頑張ればいいじゃないかという意見もあるだろうが、日本だけで完結していては競技力の向上は望めず、頭打ちになってしまう。

 なるほど。男子マラソンの低迷が駅伝と関係があったこともよくわかりました。また、著名な陸上部の監督が学生をどう指導したかという所も興味深く読みました。ちょっと笑ってしまったのが、選手の髪が長めか、短めかで大学を分類・比較しているところ。日テレが放送を始めて以降(87年~)では、「ロン毛派」の学校の優勝は3回しかないそうです。「選手の髪形を見て、各校の指導がどうなっているのか想像するのも、私にとっての駅伝の楽しみのひとつなのだ。」というのですから、この著者、本当に駅伝が好きなんですね。
 

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2006.01.02

新年おめでとうございます。

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 年末に長野県原村に行き、雪と戯れたり、宿でのんびり読書を楽しんだりしてきました。 ( 「マイフォト」に写真をたくさんアップしましたので、見てください。)

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 さあ、正月休み、いろいろ本も読みたいけれど、まず年賀状を書かなければ…

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