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2006年2月

2006.02.25

オトナのヨロコビ

 次の週末は京都に行きます。(15年ぶりくらいかなあ…)
 職場の連中と名所見物して、ちょいと贅沢な旅館で飲んで騒いで帰ってくるという企画ですが、僕の場合、どうせ交通費かけて行くなら一泊じゃもったいないので安いホテルにもう一泊し、安上がりなレンタサイクルを借りてあっちこっち見て、歴史や文学のお勉強をして来よう、そのためには行く前から本を読んで予習しとかなきゃということになり、つまりは「貧乏性」と「職業病」と「読書癖」が三拍子揃ってしまったわけですから、当然の成り行きとして京都関係の本に手が伸びます。
 そこで読んだのが『京都、オトナの修学旅行』(山下裕二、赤瀬川原平)。「金閣寺」や「清水寺」など、京都の超有名観光地を訪れた目利きの二人が、自分たちの目を喜ばせた物件について、ギャグを交えつつ真剣に語り合うという、愉快この上ない本です。
 二人が嫌いなのは、「~と言われています」という解説。人がどう評価していようと、自分の目をたよりに自分勝手に楽しんでしまうというのが二人の流儀。

>山下 「…と言われています」とか「有名だから見てください」と言われちゃうと、自分なりの創造力がまったく働かないでしょ。
 赤瀬川 創造力はいりません、と言われたみたいで。逆に「有名ですから自分の目はもういらないんでしょ」って言いたくなっちゃう。
 山下 オバサマ方も、ぼくたちみたいに、ヒネクレたり、勝手なことを言いながら見てほしいですよね。

 オトナの修学旅行は、それまでの人生の中で鍛えてきたオトナの目で、自分なりのヨロコビを発見する旅でありたいものです。

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2006.02.20

テクノロジーの功罪

 3年生の「現代文」の教材として最後に取り上げたのは、池内了の「テクノロジーとのつきあい方」(出典は晶文社刊の『科学は今どうなっているの?』)です。少ない授業時数の中で扱うのには手頃な長さで文章も平易ということもありましたが、「ケータイ」を手放せない生徒たちに、テクノロジーの功罪について自覚的であって欲しいという気持ちもあったからです。

テクノロジーがもたらしたさまざまな製品は、私たちの生活を、便利で、安全で、健康的で、快適で、スピーディーで、豊かにしたが、はたして私たちの英知は、それらを有効に使いこなすだけの進歩をしただろうか。今後、環境問題がますます激しくなると予想される現在、このまま野放図にテクノロジーの発展を喜んでいるだけでよいのだろうか。テクノロジーは、私たちが本当に人間らしく生きることをむしろ阻害している側面もあるのではないか。

という問題意識から出発し、テクノロジーの発展が環境に及ぼす悪影響や、テクノロジーが生み出した製品がその便利さ故にかえって人間が本来持っている能力を衰えさせる点を指摘し、そうしたテクノロジーに「あえて手を出さない」という発想も21世紀を生きる人間の英知と言えるのだと、著者は主張しています。授業の最後に書いてもらった感想文では、著者の主張に対して肯定的な立場に立って、便利な製品にもたれかかっている生活を見直すべきだと主張する生徒が半数以上でした。

『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』(森健著)もまた、池内了とほぼ同様の問題意識から書かれた労作です。森は情報のネットワーク化のもたらす功罪の「罪」の側が、特に日本においてはほとんど語られることがないまま、いつの間にか生活の中に根を広げている点を危惧し、広範な取材に基づきながらその「罪」を明らかにしようとしています。

技術が発展していく際に付与される利便性よりも、同等、もしくははるかに多くの失われていく何かがあるように思う。…利便性は身近な実感とともに容易に理解することができるが、概念的なものは失われても実感を伴いにくい。そこに少なからぬ不安を覚えている。

 その「失われていく何か」が必ずしも実証的に明らかにされてはいない点がこの本の弱さと言われるかも知れません。しかし、たとえばネットによって特定の関心を持った人間同士が作る「スモールワールド」が形成され、その中では情報密度が濃いが、「スモールワールド」を越えた広範な範囲での情報共有が減っていき、民主主義的な意思決定ができなくなるというのは、自分の周辺を見回してみても納得できます。教室の中の人間関係の変化もそうした傾向と無縁ではないように感じるのです。

 いつでも「ケータイ」を握り締め、レポートを書くときにはまず「ネット」の検索から始める高校生にも、ぜひ読んでもらいたい本です。テクノロジーの生み出す負の側面は、環境や人体など目に見える部分だけに現れるのではないということにも気づいて欲しいと思うのです。

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2006.02.18

三者三様

 『俳句』(角川書店)の「鼎談合評」は今年の1月号から新しいメンバーになって、俄然面白くなったように思います。同じ作家の作品群に対して三者三様の俳句観を正面からぶつけ合うところがスリリングです。
 2月号では、今井杏太郎の「水を見ていちにちが過ぎ秋が来る」「砂山にのぼれば秋の空が見ゆ」のような作品をめぐって、肯定派の藤原龍一郎千葉皓史に対する否定派の出口善子という図式を鮮明にしながら、丁々発止のやりとりがみられます。(ちなみに、僕自身は肯定派の方ですが。)

まづは藤原龍一郎…
僕はこの今井さんという人の文体にものすごく興味を持っています。この人の言葉は浮力がついているように軽いですね。…しかも妙な臭みがついていない。…作品の言葉が読者の心の中で重さを持たないという不思議な言葉のつながり。独特の文体です。

続いて千葉皓史…
緩やかに詠むんだけど決して緩んではいないので、句に浮力がある。…言葉そのものは重くれないように、できるだけ吟味して、語彙を少なくしていらっしゃると思います。だから、ページを開いても全体に透明感があります。

一方、出口善子は…
すんなり行き過ぎると印象に残りにくいというんですか。べつにそんな印象に残らなくてもいいですけれど、何か食い足りないというか、お茶漬けの味というか、そんな感じがしました。…たったこれだけのことを言うために時間をかけるのか…。私なら食い足りないなという感じがします。

すると千葉皓史は…
ま、好みだから、好きになれとか嫌いになれとかいうのは必要ないのであって、要は私にはこういう句は魅力的だということです。出口さんがおっしゃるような近代文学的なものが俳句に求められた時代がありました。そういう近代文学はもう終わってしまったかなという思いがどこかにあります。

という具合で、結構はらはらさせられるような展開になるのです。最後は

>出口「時代遅れであろうと、先端を行っていようと、どの時代に流行ったものであろうと、自分がこれと思った流儀を貫けばいいのではないかと思っています。
 千葉「いや、そのとおりだと思います。

と議論は収束したかに見えるのですが、その先で雨宮きぬよの句をめぐって再び

出口「〈秋水の濁りて今日を急ぎける〉はなかなか意味が深いと思います。
 藤原「意味はありますね。
 千葉「僕は逆に、そこに意味があるのがいやなんです。

というやりとりもあって、火種はまだくすぶっていたことがわかります。根本に俳句観の違いがあるわけですから、歩み寄れるはずもないわけで、来月号以降も今回のようなやりとりが続くのだろうと想像されます。楽しみです。(読者投句欄で入選すれば、僕の句が取り上げられるかも知れないというもうひとつの楽しみも加わるんだけれど…)
 ついでながら、2月号の特集「本当に名句なのか?―評価の分かれる有名句」も、有名句に対する賛否両論を並べた、面白い特集です。これもまた、俳句の読みの多様性を示してくれています。

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2006.02.15

危うきに遊ぶ

 『俳句』12月号に発表され、僕のお気に入りとしてここに挙げておいた句の中の多くが、今月号(2月号)の「合評鼎談」と「俳句月評」で取り上げられていたので、興味深く読みました。
 まず、後藤立夫の「ボーナスの出たような顔しておりぬ」について、「鼎談」では出口善子

〈ボーナスの〉は危ない、きわどいところだなあという感じはしたんです。こちらの発言も危ないんですけれど、例えば「うがち、軽み、おかしみ」という川柳の三大要素が一応は全部、押さえてある。それと直喩ですね、これ。〈出たような〉ですから。「名人は危うきに遊ぶ」と言いますが、賛否両論出るところではないでしょうか。

と、作品に対してやや懐疑的な発言。一方で「月評」の櫂未知子は

とぼけた味わいのある句。年末賞与、すなわち〈ボーナス〉を詠んだ句は、経営不振ゆえの額の少なさであるとか、社内での地位の低さゆえのわびしさに終始しているものが多い。しかし、この明るさ! 日頃の苦労が報われたかのようなはればれとした表情をした人を目にしたのだろう。…この作者の句のあたたかさは貴重である

と賛辞を呈しています。「ボーナス」の句は確かに川柳とのボーダー上の危ういところに位置していると言えますが、俳句に笑いを求めたい気持ちの強い僕にとって、これはこれで非常に惹かれるものを感じるのです。
 今井杏太郎の「こすもすのをはりは草になりにけり」も僕を立ち止まらせた句でしたが、これについて「月評」には、

今までコスモスの終焉を考えたことがなかった。群れて咲くコスモスが風の吹くたびにどう揺らぐか、いや、風とコスモスの取り合わせは嫌になるほど見たから、そこをどう外そうか、とばかり考えていた。しかし、この句を見て驚いた。花も終わり、枯れの時期直前の〈こすもす〉の風情を描くこともなかなか素敵なことだと思った。

とあります。軽い筆致でありながら、コスモスに対する認識を更新させ得るだけの力を持った、魅力的な句ではないでしょうか。
  そのほか、僕がいいと思って挙げておいた「埋火となりて時間の余りをり」(後藤立夫)、「秋逝くと目を細めては森濃くす」(岡本眸)「どんぐりを拾つてをれば胡桃落つ」(橋本美代子)も、「鼎談」の中で取り上げられていました。
 ところで、さきほどの今井杏太郎の作品群をめぐる「鼎談」での三人のやりとりはなかなか読み応えがあります。それについては、次回書きたいと思います。おやすみなさい。

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2006.02.11

「なので」なのだ。

 このところ若い人が「なので」という言葉を接続詞的に使うことが急に多くなったと感じています。たとえば、

 「僕は将来英語を生かした職業に就きたいと思っています。なので、貴校の英語専攻コースを志望しました。」

 「今のままでは地球環境は悪くなる一方です。なので、私達は物を買うとき本当に必要かどうか判断することが大切です。」

という具合です。このような言い方は、ちょっと前まではほとんど耳にしなかったのではないでしょうか。僕は言葉に関しては保守的な人間でありまして(仕事柄ということもあるけど)、このような耳慣れない表現が気になって仕方がないのです。
 手近にある辞書をいくつかあたってみましたが、「なので」を項目として採用している辞書は見つかりませんでした。『日本国語大辞典』(縮刷版、昭和55年発行)の「なのだ」の項には次のような説明が見られます。

説明し言い聞かせる意を表わす。話しことばでは「なんだ」となることが多い。「だ」の活用に応じて、「なのだろう」「なのだった」などの形でも用いる。「なので」「なのに」は、接続助詞的な用法が主である

 「接続詞的用法」ではなく「接続助詞的用法」ということですから、「春なのに涙が出て来ちゃう」「もう歳なので無理はできない」のように、あくまでも文中に用いられることを言っているのです。ところが、「なのに」の方は『日本国語大辞典』では接続詞として項目を立てているのです。

な-のに《接続》(「それなのに」の「それ」が省略されたもの)前の事柄に対し、後の事柄が反対・対立の関係にあることを示す。それなのに。だのに。「よく寝た。なのに眠い」

 「なのに」を項目としている辞書はほかにもあり、同様の説明を載せています。「なのに」と「なので」の違いは逆接か順接かの違いでしかないのですから、「なのに」に続いて「なので」が接続詞的に使われるようになるのは、必然的な流れなのかもしれません。「なので」もいつかは接続詞として認知され、辞書にも採用される日が来るのではないでしょうか。
 (ところで今思い出しましたが、「なのにあなたは京都へ行くの? 京都の町はそれほどいいの?」っていう歌、昔誰かが歌ってましたよね。)

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2006.02.08

塾長の言葉について熟考してみる。

 今日、「朝日新聞」の連載コラム「炎の作文塾」で、高校三年生の文章を俎上にのせて次のように言っている一節があるのを見つけて、考えてしまいました。

ものごとを論じ、しかも読ませる文章に仕立てるのは、プロの文章家のすること。天才でもないかぎり、学生や素人はやめたほうがいい。
 文章とは、君にしか書けないことを書くもの。考えたり、思ったりしたことではなく、何をしたのかを書くことだ。(塾長・川村二郎)

 塾長が言うように、「物事を論ずるのが文章だ」というのが「誤解」なのだとしたら、そもそも学生に対して「…について論じなさい」「…についてあなたの考えを述べなさい」などという課題を与えること自体が誤りだということになってしまいます。
 自分にしか書けない自分だけの経験に基づいて書かれたもののほうが文章としての価値が出てくるのはもちろんで、僕も生徒に対しては「自分の具体的経験を踏まえて書くこと」を繰り返し指導しています。それでも高校生の文章はステレオタイプに陥りがちで、読むのが苦痛になることは毎度のことです。しかし、出てくる意見は平凡でも、それを自分なりに文章にまとめてみることは、生徒にとって有意義な経験なのではないでしょうか。
 …などと考えているうちに、今日の新聞が昨日の新聞になってしまいました。

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2006.02.01

達人になりたしと思へども…

 森口朗『授業の復権』(新潮新書)を読みました。
 著者はまず現行の学習指導要領の根底にある「新学力観」を次のように定義します。

「新学力観」とは、知識を増やし理解を深める力を「古い学力」とし、「意欲・態度・関心」=「新しい学力」をより重要と考える教育思想である。

 そして、この「新学力観」によって「「授業」という学校の根幹部分が破壊された」と言い、また、「ゆとり教育」が推進されてきたこの二十数年の間に、「「学力を向上させる授業がよい授業である」という常識が、学校(特に小学校)から消失した」とも述べています。
 著者は、「ゆとり教育」の推進と「新学力観」の提唱がもたらした「学力低下」という問題から学校を蘇生させるためには、学習指導要領の改訂など、「教育行政の大転換が必要」だが、それ以上に教師の授業技術の向上が重要であるとし、そのためのヒントとして、「授業の達人」たちの実践例を紹介しています。ここには、反復練習を中心とした「寺子屋型」の授業や、文部科学省の推奨する「問題解決型」の授業実践の成功例など、さまざまなタイプの実例が挙げられているのですが、著者は、こうした「見習うべきサンプル」をさらに掘り起こし、教師は自身の授業技術を向上させてほしいと締めくくっています。
 これは耳を傾けるべき多くの示唆に富んだ著作だと思います。著者の言うとおり、「学校にとっては授業こそが「魂」」なのです。教師の仕事は授業です。
 しかし、こんな当然過ぎることを忘れてしまいそうになるほど授業以外の雑務に忙殺されているのが今の教師の現実です。
 また、来年度からは高校にも「観点別評価」が導入されようとしており、そうなると「意欲・態度・関心」も数値化しなければなりません。世間ではこれほど学力低下の問題が大きく取り上げられているのに、現場には現行の学習指導要領のさらなる徹底の動きが上から降りてきているのです。
 「観点別評価」に伴って発生する業務は膨大なものになることが確実です。また、そもそも「意欲・態度・関心」は評価できるものなのか、という根本的な問題もあります。
 「授業の復権」への道のりは、相当厳しいと言わざるを得ません。

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