2006.02.20

テクノロジーの功罪

 3年生の「現代文」の教材として最後に取り上げたのは、池内了の「テクノロジーとのつきあい方」(出典は晶文社刊の『科学は今どうなっているの?』)です。少ない授業時数の中で扱うのには手頃な長さで文章も平易ということもありましたが、「ケータイ」を手放せない生徒たちに、テクノロジーの功罪について自覚的であって欲しいという気持ちもあったからです。

テクノロジーがもたらしたさまざまな製品は、私たちの生活を、便利で、安全で、健康的で、快適で、スピーディーで、豊かにしたが、はたして私たちの英知は、それらを有効に使いこなすだけの進歩をしただろうか。今後、環境問題がますます激しくなると予想される現在、このまま野放図にテクノロジーの発展を喜んでいるだけでよいのだろうか。テクノロジーは、私たちが本当に人間らしく生きることをむしろ阻害している側面もあるのではないか。

という問題意識から出発し、テクノロジーの発展が環境に及ぼす悪影響や、テクノロジーが生み出した製品がその便利さ故にかえって人間が本来持っている能力を衰えさせる点を指摘し、そうしたテクノロジーに「あえて手を出さない」という発想も21世紀を生きる人間の英知と言えるのだと、著者は主張しています。授業の最後に書いてもらった感想文では、著者の主張に対して肯定的な立場に立って、便利な製品にもたれかかっている生活を見直すべきだと主張する生徒が半数以上でした。

『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』(森健著)もまた、池内了とほぼ同様の問題意識から書かれた労作です。森は情報のネットワーク化のもたらす功罪の「罪」の側が、特に日本においてはほとんど語られることがないまま、いつの間にか生活の中に根を広げている点を危惧し、広範な取材に基づきながらその「罪」を明らかにしようとしています。

技術が発展していく際に付与される利便性よりも、同等、もしくははるかに多くの失われていく何かがあるように思う。…利便性は身近な実感とともに容易に理解することができるが、概念的なものは失われても実感を伴いにくい。そこに少なからぬ不安を覚えている。

 その「失われていく何か」が必ずしも実証的に明らかにされてはいない点がこの本の弱さと言われるかも知れません。しかし、たとえばネットによって特定の関心を持った人間同士が作る「スモールワールド」が形成され、その中では情報密度が濃いが、「スモールワールド」を越えた広範な範囲での情報共有が減っていき、民主主義的な意思決定ができなくなるというのは、自分の周辺を見回してみても納得できます。教室の中の人間関係の変化もそうした傾向と無縁ではないように感じるのです。

 いつでも「ケータイ」を握り締め、レポートを書くときにはまず「ネット」の検索から始める高校生にも、ぜひ読んでもらいたい本です。テクノロジーの生み出す負の側面は、環境や人体など目に見える部分だけに現れるのではないということにも気づいて欲しいと思うのです。

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