2005.11.27

海はどこに

 逗子文化プラザで行われた、「波多野睦美メゾ・ソプラノリサイタル~つくろう、つなごう、日本の歌」を聴いて来ました。

 波多野睦美は、プログラムプロフィールに「古楽のフィールドを中心に活動し、バロック期の歌曲、カンタータ宗教曲などで活躍」とあるのも頷ける、清潔感のある歌声が魅力の歌い手で、聞き慣れたのとは一味違う日本語の響きを聞かせてくれました。

 実は僕にとってこのコンサートの一番の楽しみは、高橋睦郎による自作の詩の朗読でした。このコンサートを企画した僕の友人とのトークもなかなか興味深い内容でしたが、その中で二編の詩を朗読した時は、会場内にふわっと暖かい空気が満ちてくるような感じがして、心癒されるようなしみじみした幸福感を味わうことができました。今まで僕は高橋睦郎に対して、学者肌の近寄りがたい人というイメージを勝手に描いていたのですが、実際はとても温かく親しみやすいお人柄の方のようでした。

  海は どこにありますか
  つぶったまぶたのおくに

  海は どこにありますか
  ひろげた本のページに
  閉じた
ピアノの鍵盤に (高橋睦郎「海はどこに」より)

これは、このコンサートのために書かれた詩の一節です。矢野義明によって曲がつけられて、素敵な歌曲になっていました。

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2005.11.05

なぎさへの誘い

 友人から、次のような演奏会を企画したと案内が届きました。

「つくろう、つなごう、日本の歌」
波多野睦美メゾ・ソプラノ・リサイタル
(逗子文化プラザホールオープニングイヤー記念事業)

http://zushi-plaza.34-net.com/

平成17年11月26日(土) 15:00開演
逗子文化プラザ なぎさホール

曲目…よく知られた日本の歌(「からたちの花」など)のほか、三つの委嘱作品

 委嘱作品のうち二つは逗子在住の詩人・高橋睦郎による作詞だそうで、興味をそそられます。
 久しぶりに高橋睦郎『私自身のための俳句入門』を開いて、線の引いてあるあたりを拾い読みしてみました。

私たちは四季の変化に富む風土に住み、他のどんな民族よりも季感に敏いと思いがちである。そこまではまだよいとしても、原始古代から伝統的に季感に敏であったと考えかねないが、これは明らかに誤っている。四季の変化に富むとは、これを言い換えれば四季の変化の推移が緩やかだということであり、この緩やかさはそこに住む者の季感を敏にするよりも、むしろ鈍にする。
 ほんらい季感に敏になるのは、もっと季節の変化の激しい風土に住む民族、具体的には大陸性気候の中に住む民族ではあるまいか。私たちの季感は彼らが海を越えて持ち来たり、教えてくれたものではないだろうか。

 さらに著者は別のところでも「春夏秋冬」という概念は外来のものであったことを繰り返し、次のように続けます。

季節感をいやが上にも敏感にしたのが、大陸から齎された季節の制度とわが国の季節の実際とのずれである。じっさいにはきびしい寒さの中にあるのに制度は春の訪れを感得せよとせきたてる。

 そしてこのずれが生じさせる「不自然」な季節感が短歌、さらには連歌の行き詰まりへとつながり、俳諧への流れを作っていくという論の展開は、なかなかスリリングです。
 また、今年の『俳句』6月号には高橋睦郎による「特別作品50句」が載っています。この人の句には広大な古典文学の世界を下敷きにしたものが多く、該博な作者の前で僕などはただひれ伏すしかないのですが、中にはこんな平明な句もあります。

花火果て闇の豪奢や人の上
 月光の透明の棒ひしめける

 さて高橋睦郎による歌曲を聴きに逗子まで行ってみようかどうしようか、迷っているところです。

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2005.10.18

ハイドンとその「夫人」

 仕事の忙しさに加えて、僕の所属するオケ(横浜シティ・シンフォニエッタ=YCS)ttp://homepage2.nifty.com/ycs/index.htmlの演奏会が近づくにつれてその準備も忙しくなり、すっかりこのブログも更新が滞ってしまいました。

 この忙しい合間を縫って少しずつ読み進めてきたのが、『ガット・カフェ~チョロと音楽をめぐる対話』(鈴木秀美著)です。
 朝日新聞の読書欄の小さな記事でこの本を知り、書店に注文したら、こんな素敵な本が届きました。造本の美しさに見惚れてしgutcafeまいます。

 鈴木秀美はチェリストであり、ハイドンを中心に演奏をするオーケストラ・リベラ・クラシカの主宰者です。(と言っても、僕はハイドン愛好者であるにもかかわらず、迂闊にもこのオケの存在を知らなかったのですが…)そして、この本もまた、そのハイドンの魅力について存分に語ってくれています。たとえば初期の交響曲についてはこんな具合に…

第一ヴァイオリンだけでとても静かに始まる第6番《朝》の冒頭は、いかにもこれから朝日が昇ってくる一日の始まりを思わせるが、その序奏に続くアレグロは、管楽器達が一人ずつこちらを向いて手を振っているような音型が登場する。スコアを読んでいるだけでも思わず微笑んでしまいそうなものである。…ハイドンは、「習作的」な初期の作品を経て後期のマスター・ワークスへ「進歩」したのではなく、初期は初期で違う味わい、これらもまた素晴らしい作品なのである。

 本当にそうなんですよ。ハイドンは演奏するたび聴くたびに、至福の時をもたらしてくれて、裏切られたことがありません。以前、YCSで取り上げた第47番なんて、ニックネームも付いていない、まさに無名の曲ですが、演奏してみると実に味わいの深い曲で、ついでにその前後の曲もCDで聴いてみたら、それらがまたどれもそれぞれの魅力を持っているのです。
 上の引用部にある第6番というのは、僕のようなファゴット吹きにとってはいかにも「美味しそうな」ソロがあって、ぜひ吹いてみたい曲の一つですが、104番まであるハイドンの交響曲の中には、まだまだ「ご馳走」がたくさん隠れていそうです。

 ところで、この『ガット・カフェ』を読んでいて、ぜひ聴きたくなった作曲家がもう一人います。
 ボッケリーニです。
 著者は、チェロの師であるアンナー・ビルスマの次のような言葉を紹介しています。

「ボッケリーニの音楽はね、素晴らしく大きな時計屋に入ったようなものだ。大きな柱時計の振り子はゆったりと、壁の時計がコチコチ、小さな時計が卓上でチクタクチクタク……と何百何千もの針や振り子が動いて音を立てている。けれど、店の中は”静か”で、誰も動いてはいない……」

 時計といえば、有名な『時計』交響曲でなくても、ハイドンの音楽には時計の針の動きのような単純な音の列がしばしば見られ、その点でボッケリーニにも似た要素があるということでしょうか、ボッケリーニを批判的な意味で「ハイドン夫人」と呼んだヴァイオリニストもいたそうです。でも、僕にはその単純さが魅力に感じられてならないのです。
 僕はさっそく、Ensemble415というグループが演奏する「弦楽クインテットop.39」のCDを買って聴いてみました。まさに「音のある静かさ」という表現がぴったりの、心癒される音楽で、なんとも幸せな気分にさせてくれるのです。
 ハイドンにしても、ボッケリーニにしても、その中にまだまだたくさんの名曲が隠れていると思うと、ワクワクしますね。

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