転居のお知らせ
ブログを引っ越しました。
引越し先は『はてなダイアリー』です。
これより新しい記事はこちらをご覧下さい→ http://d.hatena.ne.jp/mf-fagott/
今後とも、今まで同様お付き合いよろしくお願いいたします。
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先日、朝日新聞の夕刊に「本屋のオヤジのおせっかい 中学生はこれを読め!」というホームページのことが取り上げられていましたが、面白そうだったので今ちょっとのぞいてみました。
ありました、辻仁成の『ミラクル』! ブックリスト「これ読め500選リスト」の中の304番目にしっかりリストアップされていました。よしよし、納得です。僕が「若者に読ませたい本」のリストを作るとしたら、ベスト5の中にでも入れたいくらいです。これは「大人の童話」として書かれたということですが、若い人に文学の魅力を知ってもらうのに格好の本だと思うのです。
前にも書いたとおり、今この作品を授業でやっているので何度も繰り返し読んでいるのですが、特に最後の場面は何度読んでも感動してしまいます。今日も次回の授業の準備のために職員室で読んでいたら、涙が止まらなくなってしまって困りました。
>「パパによろしくって、言ってたよ。また雪が降るころに帰ってくるからって。僕にパパの面倒を見るようにって。あんまりお酒は飲ませないようにって。ママはパパの身体のことを何よりも気にしていたよ。」
主人公の少年アルのこのせりふのところに来ると、もうダメなのです。健気にも父親の気持ちを気遣って嘘をつく少年…(ここだけ引用しても、何だかわからないでしょうけど)。 ところが実はここの場面をそんな風に解釈するようになったのは、2度目か3度目に読んだときからで、最初のうちは少し違う読み方をしていました。この先、生徒の意見などを聞いているうちにまた新たな読み方の発見があるかもしれません。つまり「童話」とは言うものの、なかなか奥が深い作品だということです。
ですから、中学生でなくても誰でも「これを読め!」と薦めたくなってしまうわけなんですね。
ところで「500選」をさらに見てみると、ロバート・R・マキャモン『少年時代 上下』、中村紘子『ピアニストという蛮族がいる』、高島俊男『漢字と日本人』、椎名 誠『活字のサーカス』などなど、僕が面白く読んだ本がほかにもたくさん見つかります。だから最後に一言…
「オヤジもこれを読め!」
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古池や蛙飛び込む水の音
日本人の誰もが芭蕉の代表作の一つであることを疑わない「名句」。
「古池」「蛙」「水の音」というあまりにもイメージしやすい平易な言葉だけから成るために小学生でも知っている「国民的俳句」。
しかし、長谷川櫂以前にその本質を余すところなく的確に語りえた人はいたでしょうか。もはや彼の著作『古池に蛙は飛び込んだか』を読まずして、この句について語るわけにはいかなくなったのではないでしょうか。
長谷川櫂は周到にその根拠を並べながら、この句が確かに「蕉風開眼」の画期的な句であることを明らかにして見せます。そしてさらに俳句を俳句たらしめている「切れ字」に対する深い洞察をも我々の前に示してくれるのです。(いや、切れ字「や」の本質に迫ることで初めて「古池」の句の実態が解き明かされたと言った方が、順序としては正しいかもしれません。)
>言葉を切ることによって時間の流れを切り返し、その瞬間に心の世界を開く。それこそが「や」「かな」という切字の働きだった。切字はただ「大きな断絶」をもたらすのではなく心の世界を呼び起こす。(下線は引用者)
それゆえ「古池や」の句は「蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ」と解釈されるべきである。「古池や」は「古池に」の代用では断じてあり得ない。「古池に蛙が飛び込んだ」では現実をただ写し取っただけの平板な句になってしまう。「古池」は現実のどこかではなく、読み手の心の中に存在するのだ、ということになります。
ところで実は、「古池」の句に対するほぼ同様な解釈は、すでに仁平勝の『俳句をつくろう』(講談社現代新書)の中にも見られるものです(p25~p27)。
長谷川の場合はしかし、「古池」の句そものものの解釈を示すに留まりません。「古池」の句が「蕉風開眼」の句と呼ばれるにふさわしいことを証明するため、それ以後の句も「古池」同様、「蕉風」の具体化であることを明らかにします。つまり、有名な「夏草や」「閑かさや」「旅に病んで」などの句についても「現実のただ中」の「心の世界」を見事に浮かび上がらせているのです。
また、『去来抄』に記されたエピソード(「病雁の夜さむに落ちて旅ね哉」と「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」では比較するまでもなく前者が優れていると芭蕉が言ったこと)についても、「心の世界」をキーワードとすることで芭蕉の発言の真意が解き明かされるとともに、「去来的」なものと「凡兆的」なものの対立という、俳句をめぐる根源的思索へと誘われるのです。
知的感興を覚えつつ芭蕉の作品の深い理解へと導かれる、これは類稀な名著なのではないかと思います。
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日本に来て3年になる高校生二人と日本語の勉強をするために、辻仁成の『ミラクル』を教材に選びました。新潮文庫の挿絵を見せながら最初の方のあらすじを話して聞かせると、二人ははやくも作品に引き込まれたようで、「読んでみたい?」と聞くと大きく頷きました。
>その店の名前はもう覚えてはいないが、カウンター脇のホールに古ぼけた小型のアップライトピアノが備付けてある小さなピアノバーだった。そしてあの男はそのピアノに真っ直ぐに向かいクラシックともジャズとも言えない不思議な旋律を奏でていた。
その男の名前はアル。アルは客である「僕」に、まだ誰にも話したことはないという自分の過去を語り始める。「それは僕のその後の人生を大きく左右するほどの物語だった。」
授業は二人の生徒に交互に音読してもらい、難しい言葉が出てきたらそのつど意味を説明するというやり方で先へ進みました。アルだけにしか見えない二人の幽霊の存在、不思議な女の子キキとの出会い、そして雪とともに訪れる奇跡… 作品はしっかり二人の高校生の心を捉えたようでした。3回目の授業で最後の場面を読み終えたとき、一人が「これで終わり?」と言ったのは、謎を残したような幕切れに、先があるならぜひ読みたいという気持ちにさせられたのでしょう。
次の授業では、アルとその父親のシドの会話の部分を、二人がそれぞれのせりふを担当して寸劇のような形で読んでみたら面白いのではないかと思っています。
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藤原正彦の本をもう一冊。
安野光雅との対談をまとめた『世にも美しい日本語入門』(ちくまプリマー新書)。もちろん、「世にも美しい《日本語入門》」ではなくて、「《世にも美しい日本語》入門」です。
>安野 …その国の言葉が美しいと言えるのは、その国の言葉で書かれた書物がどれほどあるかということなのではないか、いやそれにつきると思い至りました。考えてみれば、私たちは、座して世界の文学や医学書などに触れることができるようになっています。
藤原 まったく同感です。古くから珠玉の文学作品に恵まれた不思議な島国、もっとも美しい言葉の中に、私たちは生まれたのだと思います。
その「珠玉の文学作品」の一つとして二人が声をそろえて絶賛するのが森鴎外の『即興詩人』。その『即興詩人』について、藤原正彦は次のように言います。
>ストーリーだけで言ったら、通俗小説です。それを格調高い芸術にしてしまう。文語それ自体のもつ高い芸術性と、森鴎外の天才ですね。彼の訳を見ると、日本語の豊かさが感じられます。筋書きは大したことはなくとも、人を酔わせるような文章があれば、文学として立派に成立する、ということを証明した作品でもあると思います。
僕はまだ『即興詩人』を読んでいませんが、上で言っていることはそのまま鴎外の『舞姫』にも当てはまるのではないでしょうか。『舞姫』といえば高校の現代文の教科書の定番教材ですが、教室でこの作品を読むとき、主人公豊太郎の生き方に焦点を当ててしまうと、高校生からは「エリスを裏切った豊太郎は卑怯だ」「豊太郎は優柔不断な男で情けない」という感想しか引き出せないで終わってしまいます。
この作品もやはり筋を追うよりも文語自体の持つ魅力に気づかせることを一番のねらいとして授業で取り上げるべきなのであって、何度も音読して文章そのものを味わうのでなければこの作品を本当に読んだことにはならないでしょう。これを現代語訳で読ませるのなどは、全くナンセンスな話です。「貧しきが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。」というような鴎外の文語文には、通俗的なことを言っていながら人を酔わせる不思議な力が確かにあります。
しかしそれ故、文語文の復活を声高に叫ぶ風潮の強まりは、ある種の危険性を孕んでいるとも言えるでしょう。
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藤原正彦の『国家の品格』が売れ続けて、『バカの壁』よりも早く100万部に達したそうで、当然ながらマスコミなどでもいろいろ取り沙汰されています。
このブログの以前の記事で書いたように、(2006年1月)
>「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけです。それ以外の意味での自由は、この言葉もろとも廃棄してよい」
というような部分を批判している文章に出会わないことが、僕にはちょっと不思議だったのですが、『論座』5月号の「藤原正彦氏に聞く ベストセラー『国家の品格』への質問」という記事の中で、この部分に触れたやりとりがあって、やっぱり気になっている人はいたんだと安心しました。(聞き手は『論座』編集長、薬師寺克行)
>――自由の強調は身勝手の助長にしかつながらなかった、自由とは積極的に称揚すべき概念ではないと指摘されていますね。これもずいぶん思い切った発言ですね。
藤原 その通りです。ただ、権力を批判する自由だけは絶対に確保しなくてはいけないと書きました。私はそこが一番のポイントだと思います。政府や官僚の暴走を自由に批判する権利だけは究極的に重要な自由です。しかしほかの自由というのはよくよく考えると定義すらできないし、そもそも生まれたときからあるのかないのか分からない。人間にはそもそも自由なんてないと、私は思っているわけです。
結局著者は本の中で言ったことを繰り返しているだけで、聞き手の方もこれ以上追求せずに話題が他に移っていきます。「人間にはそもそも自由なんてない」とまで言ってしまうことにはどうしても賛同できない僕としては少々物足りない感じですが、聞き手としては、もっと突っ込みたいところがたくさんあったので、ここで切り上げざるを得なかったのでしょう。
実際この本には、聞き手が指摘するとおり、「あれだけナショナリズムを否定されているのに、ナショナリスティックな人が引用しやすい部分もいっぱいある」のです。
しかし、『国家の品格』に続いて『祖国とは国語』を読み、文章家としての藤原正彦の魅力を知ってしまった僕には、彼がときどき見せる過激な物言いも、彼独特のユーモア、あるいはレトリックとして許容できるようになってきました。
そもそも藤原正彦の少々「品格」を欠いた言い方は、それを面白がる読者を意識してのこと、つまりは読者サービスのひとつなのに違いありません。『祖国とは国語』に収められた家庭での一こまを描いた数編は、読んでいて思わず笑ってしまう面白さなのでした。
『国家の品格』が批判されつつも読まれるのは、その語り口の魅力に負うところも大きいのではないでしょうか。
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前回取り上げた『やっぱり京都人だけが知っている』の「あとがき」に引用されている次の一節が気になっています。ちょっと孫引きさせてもらいます。
>「愛国心」という言葉で私が何を意味しているかといえば、それは世界中でもっともよいものと考えるけれども、他人に強制したいとは思わないような、ある特定の場所や特定の生活のしかたに対する強い愛情である。愛国心は、その性質上、軍事的にも文化的にも、守勢のものなのだ。―『ライオンと一角獣』ジョージ・オーウェル
ここで言っている「愛国心」とは、次の「パトリオティズム」の方にあたるでしょう。
>英語で愛国心にあたるものに、ナショナリズムとパトリオティズムがあるが、二つはまったく異なる。ナショナリズムとは通常、他国を押しのけてでも自国の国益を追求する姿勢である。私はこれを国益主義と表現する。
パトリオティズムの方は、祖国の文化、伝統、歴史、自然などに誇りをもち、またそれらをこよなく愛する精神である。私はこれを祖国愛と表現する。家族愛、郷土愛の延長にあるものである。
これは最近読んだ『祖国とは国語』(藤原正彦著)からの引用ですが、著者はさらに我が国でこのナショナリズムとパトリオティズムの二つを「愛国心」というひとつの言葉でくくってきたことが今日の「不幸」の始まりだったと言っています。
そもそも「日本という国」と言ったり、「お国なまり」「お国自慢」と言ったり、つまりは「国家」も「故郷」も「田舎」も同じ「くに」なのですから、「愛国心」の意味に幅が生じるのは当然です。
憲法、教育基本法をめぐる議論の中で、この言葉に対する解釈の食違いがさらなる「不幸」の始まりにならなければいいが、と思います。しかし、どう解釈されるにしろ、これが「強制」されるべきものでないことだけは確かです。
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先日京都に行って以来、本屋に入ってもつい京都関係の本に目が行ってしまいます。
『やっぱり京都人だけが知っている』(入江敦彦著)という本に、「ラーメン~こってり進化論」という章があるのを見つけて、さっそく買って読んでみました。
実は京都に行く前に、京都にはラーメン屋が多く、しかも京都のラーメンは基本的になぜかこってり味であるということを知り、こってり系ラーメンが大好きな僕としては、ぜひとも京都の代表的なラーメン屋に入りたいと思っていたのでした。
僕が入ったのは、ガイドブックによると人気店のひとつであるという京都駅近くの「新福菜館」。
ご覧のとおり、いかにも濃厚な味を想像させる黒々としたスープは、京都という街のイメージとはかけ離れています。『やっぱり京都人だけが知っている』にも「京都人という人種の認識を根本的に疑ってしまいそうになる黒いスープの『新福菜館』」という記載がありますが、関西の人間には東京の蕎麦の汁はドロドロと濃すぎて食べられない、というわりに、このようにラーメンの汁が濃いのは面白い現象です。「京都は関西で唯一のラーメン文化圏の都市」ということなので、味覚に関しては関西の中でも独自の志向性を持っているということなのかもしれません。また、「一人あたりの肉の消費量も全国一」という京都らしく、チャーシューの量も多めです。
「コッテリ濃厚」であるか、「ボリューム・アップ」かのいづれかによって、京都の日常の食はその文化を生み続けるエネルギーとなり得ているという著者の考察がどこまで当たっているかはわかりませんが、面白い考え方だとは思います。
さてこのラーメン、実際食べてみると、油分が少ないのか、意外とさっぱりした味に感じました。それだけ普段からこってり味のラーメンに慣れっこになってしまっているということかも知れませんが…
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次の週末は京都に行きます。(15年ぶりくらいかなあ…)
職場の連中と名所見物して、ちょいと贅沢な旅館で飲んで騒いで帰ってくるという企画ですが、僕の場合、どうせ交通費かけて行くなら一泊じゃもったいないので安いホテルにもう一泊し、安上がりなレンタサイクルを借りてあっちこっち見て、歴史や文学のお勉強をして来よう、そのためには行く前から本を読んで予習しとかなきゃということになり、つまりは「貧乏性」と「職業病」と「読書癖」が三拍子揃ってしまったわけですから、当然の成り行きとして京都関係の本に手が伸びます。
そこで読んだのが『京都、オトナの修学旅行』(山下裕二、赤瀬川原平)。「金閣寺」や「清水寺」など、京都の超有名観光地を訪れた目利きの二人が、自分たちの目を喜ばせた物件について、ギャグを交えつつ真剣に語り合うという、愉快この上ない本です。
二人が嫌いなのは、「~と言われています」という解説。人がどう評価していようと、自分の目をたよりに自分勝手に楽しんでしまうというのが二人の流儀。
>山下 「…と言われています」とか「有名だから見てください」と言われちゃうと、自分なりの創造力がまったく働かないでしょ。
赤瀬川 創造力はいりません、と言われたみたいで。逆に「有名ですから自分の目はもういらないんでしょ」って言いたくなっちゃう。
山下 オバサマ方も、ぼくたちみたいに、ヒネクレたり、勝手なことを言いながら見てほしいですよね。
オトナの修学旅行は、それまでの人生の中で鍛えてきたオトナの目で、自分なりのヨロコビを発見する旅でありたいものです。
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3年生の「現代文」の教材として最後に取り上げたのは、池内了の「テクノロジーとのつきあい方」(出典は晶文社刊の『科学は今どうなっているの?』)です。少ない授業時数の中で扱うのには手頃な長さで文章も平易ということもありましたが、「ケータイ」を手放せない生徒たちに、テクノロジーの功罪について自覚的であって欲しいという気持ちもあったからです。
>テクノロジーがもたらしたさまざまな製品は、私たちの生活を、便利で、安全で、健康的で、快適で、スピーディーで、豊かにしたが、はたして私たちの英知は、それらを有効に使いこなすだけの進歩をしただろうか。今後、環境問題がますます激しくなると予想される現在、このまま野放図にテクノロジーの発展を喜んでいるだけでよいのだろうか。テクノロジーは、私たちが本当に人間らしく生きることをむしろ阻害している側面もあるのではないか。
という問題意識から出発し、テクノロジーの発展が環境に及ぼす悪影響や、テクノロジーが生み出した製品がその便利さ故にかえって人間が本来持っている能力を衰えさせる点を指摘し、そうしたテクノロジーに「あえて手を出さない」という発想も21世紀を生きる人間の英知と言えるのだと、著者は主張しています。授業の最後に書いてもらった感想文では、著者の主張に対して肯定的な立場に立って、便利な製品にもたれかかっている生活を見直すべきだと主張する生徒が半数以上でした。
『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』(森健著)もまた、池内了とほぼ同様の問題意識から書かれた労作です。森は情報のネットワーク化のもたらす功罪の「罪」の側が、特に日本においてはほとんど語られることがないまま、いつの間にか生活の中に根を広げている点を危惧し、広範な取材に基づきながらその「罪」を明らかにしようとしています。
>技術が発展していく際に付与される利便性よりも、同等、もしくははるかに多くの失われていく何かがあるように思う。…利便性は身近な実感とともに容易に理解することができるが、概念的なものは失われても実感を伴いにくい。そこに少なからぬ不安を覚えている。
その「失われていく何か」が必ずしも実証的に明らかにされてはいない点がこの本の弱さと言われるかも知れません。しかし、たとえばネットによって特定の関心を持った人間同士が作る「スモールワールド」が形成され、その中では情報密度が濃いが、「スモールワールド」を越えた広範な範囲での情報共有が減っていき、民主主義的な意思決定ができなくなるというのは、自分の周辺を見回してみても納得できます。教室の中の人間関係の変化もそうした傾向と無縁ではないように感じるのです。
いつでも「ケータイ」を握り締め、レポートを書くときにはまず「ネット」の検索から始める高校生にも、ぜひ読んでもらいたい本です。テクノロジーの生み出す負の側面は、環境や人体など目に見える部分だけに現れるのではないということにも気づいて欲しいと思うのです。
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『俳句』(角川書店)の「鼎談合評」は今年の1月号から新しいメンバーになって、俄然面白くなったように思います。同じ作家の作品群に対して三者三様の俳句観を正面からぶつけ合うところがスリリングです。
2月号では、今井杏太郎の「水を見ていちにちが過ぎ秋が来る」「砂山にのぼれば秋の空が見ゆ」のような作品をめぐって、肯定派の藤原龍一郎・千葉皓史に対する否定派の出口善子という図式を鮮明にしながら、丁々発止のやりとりがみられます。(ちなみに、僕自身は肯定派の方ですが。)
まづは藤原龍一郎…
>僕はこの今井さんという人の文体にものすごく興味を持っています。この人の言葉は浮力がついているように軽いですね。…しかも妙な臭みがついていない。…作品の言葉が読者の心の中で重さを持たないという不思議な言葉のつながり。独特の文体です。
続いて千葉皓史…
>緩やかに詠むんだけど決して緩んではいないので、句に浮力がある。…言葉そのものは重くれないように、できるだけ吟味して、語彙を少なくしていらっしゃると思います。だから、ページを開いても全体に透明感があります。
一方、出口善子は…
>すんなり行き過ぎると印象に残りにくいというんですか。べつにそんな印象に残らなくてもいいですけれど、何か食い足りないというか、お茶漬けの味というか、そんな感じがしました。…たったこれだけのことを言うために時間をかけるのか…。私なら食い足りないなという感じがします。
すると千葉皓史は…
>ま、好みだから、好きになれとか嫌いになれとかいうのは必要ないのであって、要は私にはこういう句は魅力的だということです。出口さんがおっしゃるような近代文学的なものが俳句に求められた時代がありました。そういう近代文学はもう終わってしまったかなという思いがどこかにあります。
という具合で、結構はらはらさせられるような展開になるのです。最後は
>出口「時代遅れであろうと、先端を行っていようと、どの時代に流行ったものであろうと、自分がこれと思った流儀を貫けばいいのではないかと思っています。」
千葉「いや、そのとおりだと思います。」
と議論は収束したかに見えるのですが、その先で雨宮きぬよの句をめぐって再び
>出口「〈秋水の濁りて今日を急ぎける〉はなかなか意味が深いと思います。」
藤原「意味はありますね。」
千葉「僕は逆に、そこに意味があるのがいやなんです。」
というやりとりもあって、火種はまだくすぶっていたことがわかります。根本に俳句観の違いがあるわけですから、歩み寄れるはずもないわけで、来月号以降も今回のようなやりとりが続くのだろうと想像されます。楽しみです。(読者投句欄で入選すれば、僕の句が取り上げられるかも知れないというもうひとつの楽しみも加わるんだけれど…)
ついでながら、2月号の特集「本当に名句なのか?―評価の分かれる有名句」も、有名句に対する賛否両論を並べた、面白い特集です。これもまた、俳句の読みの多様性を示してくれています。
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『俳句』12月号に発表され、僕のお気に入りとしてここに挙げておいた句の中の多くが、今月号(2月号)の「合評鼎談」と「俳句月評」で取り上げられていたので、興味深く読みました。
まず、後藤立夫の「ボーナスの出たような顔しておりぬ」について、「鼎談」では出口善子が
>〈ボーナスの〉は危ない、きわどいところだなあという感じはしたんです。こちらの発言も危ないんですけれど、例えば「うがち、軽み、おかしみ」という川柳の三大要素が一応は全部、押さえてある。それと直喩ですね、これ。〈出たような〉ですから。「名人は危うきに遊ぶ」と言いますが、賛否両論出るところではないでしょうか。
と、作品に対してやや懐疑的な発言。一方で「月評」の櫂未知子は、
>とぼけた味わいのある句。年末賞与、すなわち〈ボーナス〉を詠んだ句は、経営不振ゆえの額の少なさであるとか、社内での地位の低さゆえのわびしさに終始しているものが多い。しかし、この明るさ! 日頃の苦労が報われたかのようなはればれとした表情をした人を目にしたのだろう。…この作者の句のあたたかさは貴重である
と賛辞を呈しています。「ボーナス」の句は確かに川柳とのボーダー上の危ういところに位置していると言えますが、俳句に笑いを求めたい気持ちの強い僕にとって、これはこれで非常に惹かれるものを感じるのです。
今井杏太郎の「こすもすのをはりは草になりにけり」も僕を立ち止まらせた句でしたが、これについて「月評」には、
>今までコスモスの終焉を考えたことがなかった。群れて咲くコスモスが風の吹くたびにどう揺らぐか、いや、風とコスモスの取り合わせは嫌になるほど見たから、そこをどう外そうか、とばかり考えていた。しかし、この句を見て驚いた。花も終わり、枯れの時期直前の〈こすもす〉の風情を描くこともなかなか素敵なことだと思った。
とあります。軽い筆致でありながら、コスモスに対する認識を更新させ得るだけの力を持った、魅力的な句ではないでしょうか。
そのほか、僕がいいと思って挙げておいた「埋火となりて時間の余りをり」(後藤立夫)、「秋逝くと目を細めては森濃くす」(岡本眸)「どんぐりを拾つてをれば胡桃落つ」(橋本美代子)も、「鼎談」の中で取り上げられていました。
ところで、さきほどの今井杏太郎の作品群をめぐる「鼎談」での三人のやりとりはなかなか読み応えがあります。それについては、次回書きたいと思います。おやすみなさい。
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森口朗『授業の復権』(新潮新書)を読みました。
著者はまず現行の学習指導要領の根底にある「新学力観」を次のように定義します。
>「新学力観」とは、知識を増やし理解を深める力を「古い学力」とし、「意欲・態度・関心」=「新しい学力」をより重要と考える教育思想である。
そして、この「新学力観」によって「「授業」という学校の根幹部分が破壊された」と言い、また、「ゆとり教育」が推進されてきたこの二十数年の間に、「「学力を向上させる授業がよい授業である」という常識が、学校(特に小学校)から消失した」とも述べています。
著者は、「ゆとり教育」の推進と「新学力観」の提唱がもたらした「学力低下」という問題から学校を蘇生させるためには、学習指導要領の改訂など、「教育行政の大転換が必要」だが、それ以上に教師の授業技術の向上が重要であるとし、そのためのヒントとして、「授業の達人」たちの実践例を紹介しています。ここには、反復練習を中心とした「寺子屋型」の授業や、文部科学省の推奨する「問題解決型」の授業実践の成功例など、さまざまなタイプの実例が挙げられているのですが、著者は、こうした「見習うべきサンプル」をさらに掘り起こし、教師は自身の授業技術を向上させてほしいと締めくくっています。
これは耳を傾けるべき多くの示唆に富んだ著作だと思います。著者の言うとおり、「学校にとっては授業こそが「魂」」なのです。教師の仕事は授業です。
しかし、こんな当然過ぎることを忘れてしまいそうになるほど授業以外の雑務に忙殺されているのが今の教師の現実です。
また、来年度からは高校にも「観点別評価」が導入されようとしており、そうなると「意欲・態度・関心」も数値化しなければなりません。世間ではこれほど学力低下の問題が大きく取り上げられているのに、現場には現行の学習指導要領のさらなる徹底の動きが上から降りてきているのです。
「観点別評価」に伴って発生する業務は膨大なものになることが確実です。また、そもそも「意欲・態度・関心」は評価できるものなのか、という根本的な問題もあります。
「授業の復権」への道のりは、相当厳しいと言わざるを得ません。
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『国家の品格』(藤原正彦著、新潮新書)を読みました。
本の帯に「跪く心を忘れない」とか、「武士道精神の復興を」とか、「家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛」などどいうフレーズが並んでいるのを見て、これはちょっと警戒してかからなければならない本かな、と思いましたが、読み終えてみて「言わんとしている内容にはおおむね賛成」という感想を持ちました。
なるほど、と思ったのは次のような所。「論理」が万能でないという主張は、この本の柱の一つなのですが、その理由のひとつを次のように説明するのです。
>論理というものを単純化して考えてみます。まずAがあって、AならばB、BならばC、CならばD…という形で、最終的に「Z」にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして「Aならば」という場合の「ならば」が論理です。…
ところがこの出発点を考えてみると、AからはBに向かって矢印が出ていますが、Aに向かってくる矢印はひとつもありません。出発点だから当たり前です。
すなわち、このAは、論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そして、この仮説を選ぶのは論理ではなく、主にそれを選ぶ人の情緒なのです。…
情緒とは、論理以前のその人の総合力と言えます。その人がどういう親に育てられたか、…どのような小説や詩歌を読んで涙を流したか、…こういう諸々のことすべてがあわさって、その人の情緒力を形成し、論理の出発点Aを選ばせているのです。
著者は、古来より日本人がこの論理の出発点を正しく選ぶための優れた情緒を持っているということを再三述べています。そしてそのひとつが自然に対する繊細な感受性であると言い、その例として芭蕉の句「枯れ枝に烏の止まりたるや秋の暮」と「古池や蛙飛び込む水の音」を挙げています。こうした句を成り立たせている日本人特有の感性は、世界に誇り得るものなのだ、日本人よ自信を持て、と著者は主張するのです。
ところで、和田悟朗という俳人の作品に
>AならばBなる論理秋の暮
という句があります。この作者もまた論理というものに対して懐疑的なのでしょうか。一句の中に理性と感性とを対比させて、理性の時代の終焉を予感させようとしているとも読めます。同じ作者の「蚊柱を連れて気圧を感じ居る」「消しゴムや自ら消えて夏果つる」というような句も、独特の感性を感じさせる面白い句だと思います。
さて、話を『国家の品格』に戻しますが、この本、かなり好意的に受け止められているようで、いくつかのブログに目を通しましたが、たとえば「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけです。それ以外の意味での自由は、この言葉もろとも廃棄してよい」などという過激な発言にいちいち目くじら立てているコメントは見つかりませんでした。このことを国民が成熟している証として喜んでいいのか、憂うべき兆候と捉えるべきなのか、量りかねているところです。
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この正月休みは天気もパッとせず風邪気味という事もあって、家にこもりがちで、2日3日は箱根駅伝のテレビ中継をほとんど観てしまいました。横浜駅近くまでに応援に行った年もあるのですが、やはりこれはテレビで見たほうがレース展開がよくわかって面白いですね。
駅伝観戦が楽しかったので、本屋で『駅伝がマラソンをダメにした』(生島淳、光文社新書)を見つけたときは、迷わず買ってすぐに読んでしまいました。
ただ走って襷を渡すだけという単純極まりないスポーツの、奥深さ・面白さを教えてくれる本です。駅伝選手は試走をするのだろうか、5区の距離を伸ばしたのはなぜだろうか、マラソンのペースメーカーって何者なんだ、といった疑問にもしっかり答えてくれています。
それにしても、「駅伝がマラソンをダメにした」とは、購買欲をそそろうとする意図が見え見えのネーミングですが、ではいったい駅伝の抱える問題とは何なのか。
>問題は駅伝の競争力が、そのまま陸上の国際的な競争力につながらないことにある。駅伝は英語でも「EKIDEN」、日本独特の種目だから、いくら駅伝で強くなっても、それがトラックや他のロードレースの結果に結びつかない。そうなると世界陸上選手権やオリンピックで、日本選手が上位に食い込むことは難しくなってしまう。…
じゃあ、開き直って駅伝を頑張ればいいじゃないかという意見もあるだろうが、日本だけで完結していては競技力の向上は望めず、頭打ちになってしまう。
なるほど。男子マラソンの低迷が駅伝と関係があったこともよくわかりました。また、著名な陸上部の監督が学生をどう指導したかという所も興味深く読みました。ちょっと笑ってしまったのが、選手の髪が長めか、短めかで大学を分類・比較しているところ。日テレが放送を始めて以降(87年~)では、「ロン毛派」の学校の優勝は3回しかないそうです。「選手の髪形を見て、各校の指導がどうなっているのか想像するのも、私にとっての駅伝の楽しみのひとつなのだ。」というのですから、この著者、本当に駅伝が好きなんですね。
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『日経キッヅプラス』という雑誌の「子どもと読みたい100冊の本」という特集が興味を引いたので(それと付録の「全国方言かるた」というのが面白そうだったので)買ってみました。そして、紹介されている本の中からぜひ読んでみたいと思ったものを書き出していったら20冊になってしまいました。C.V.オールズバーグの『急行「北極号」』『西風号の遭難』、ポール・フライシュマンの『ウエズレーの国』など、表紙の絵を見ただけで引き込まれます。
>絵本は漫画や小説のような表現ジャンルのひとつになり、「幼児向け」だから卒業するというものではなくなっている…
というのは本当にその通りで、図書館へ行って面白そうな絵本を夢中で探すのは、娘よりも僕の方だったりして。
『おとうさんがいっぱい』(三田村信行作、佐々木マキ絵)も、
>「当たり前」と思っていたことが幻想かもしれない…という気にさせられるちょっと怖いストーリー集
なんて言われると、どうしても読みたくなってしまいます。
年末は絵本をたくさん置いているペンションに泊まって、のんびり過ごすんだ!
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パソコンのモニターを15インチから17インチに替えてみてわかったのですが、17インチで見るとこのブログの左右の余白が妙に広かったんですね。それでデザインを変更してみました。タイトル周りのオレンジ色も少し落ち着いた色調に微調整できるといいのですが…
さて、今日は最近読んだ『新選高橋睦郎詩集』(新選現代詩文庫)から、印象に残った部分を抜き出してみます。
>家といふものは、完全に地上的だ。柱の四肢によって大地に密接に結びついてゐる。大地の血管は土台石から柱の中に流れこみ、棟木や梁をつうじて、壁や屋根にひろがる。新しい家が年月とともに周囲の風景に馴染むのは、大地の血が家をかたちづくる木材、漆喰、瓦などの材料のくまぐまに行きわたり、家ぜんたいが大地から生えた、一種の樹木になるからだ。(詩集〈暦の王〉よりJuniusの一部)
木と漆喰でできた家は、樹木として生長し、やがてまた大地に返るのでしょう。
高橋睦郎は、ソネット形式、散文詩、短歌、俳句など、あらゆるスタイルを使いこなし、詩語としての日本語の可能性を示してくれています。面白いのは、俳句において有季定型という伝統的な型をきっちりと守りながらも、誰の亜流でもない独自の世界を現出させていることです。
>山深く人語をかたる虻ありき
葉となりし桜を愛づる荒びかな
ふるさとは瑠璃の一閃つばくらめ
みちをしへいくたび逢はば旅はてん(句集〈荒童鈔〉より)
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『夕庭』(文・作庭=丸山健二、撮影=萩原正美)は、見ごたえ、読みごたえのある写真集です。
先日、丸山健二の『安曇野の白い庭』を読んで、前に図書館でチラッと見たこの写真集をもう一度じっくり読みたくなり、借りてきたのです。丸山健二の審美眼に適った植物だけが絶妙に配置された庭の写真は何度見ても見飽きない、うっとりするほど素晴らしいものですが、収録された文章がまたいいのです。
>言葉という、あまりにも精神的に過ぎる、限りなく幻に近い、頼もしくもあり儚くもある、底なしに美しい道具を思う存分駆使して、もつれもつれ、千々に乱れた、奇々怪々たるこの世とわが心の葛藤に哲学的、思想的、芸術的な秩序をせっせと吹き込んでゆくこの珍しい労働は、真剣にやればやるほど、限界に挑めば挑むほど、人間しか到底成し得ない、人間だからこその所為としての面白さに満ち満ちてくる。
一般大衆にへつらい、安きに流れることの決してない、張り詰めた精神が、庭の写真からも文章からも伝わって来ます。
>抑制こそが気品を生み出す母親である。抑制だけが情念の噴火に直結する火道である。だが、抑制の効果を充分に発揮させようとするには、へたをすると浮いてしまうほどの強烈な素材を選択し、そうしたテーマに思わず食指が動いてしまうような熱い血が五体に流れている者でなければならない。かれらのような人間は、数千年にもわたって花の女王の地位に居座りつづけるバラを避けて通るような臆病な真似はしないだろう。危険なことを百も承知で、いや、危険の度合いが増せば増すほど、そっちへぐいぐい引き寄せられて行き、いつ果てるとも知れない果敢な戦いに身を投じるだろう。
かつて(おそらく大学生の頃)読んだ芥川賞受賞作の『夏の流れ』がどんな作品だったか、今では全く思い出すことができません。その後丸山健二の小説は読んでいないけれど、これをきっかけに彼の最近の作品を読んでみたくなりました。そこにもこの『夕庭』が見せてくれるような、緊張感ある美の世界が広がっているのでしょうか?
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神奈川県内では境川自転車専用道路は人気のある コースで、僕も時々走るのですが、今日はその西側を流れる引地川沿いのコースを初めて走って来ました。
小田急桜ヶ丘駅近くから川に沿って走り始め、どんどん南下すれば最後には湘南の海に出るのですが、今日はここ、引地川親水公園まで来て引き返すことにします。
買って13年目になる愛車です。あっちこっちが錆びたり磨耗したりで、もう限界に近いような状態です。
親水公園にはお弁当を広げたり、ごろんとして本を読んだりするのにちょうどいい場所がたくさんあります。
デイパックの中は、 地図とコーヒーの入ったポット、それから『俳句』の12月号。今日は寝転がって本を読むにはちょっと寒いけど、ベンチの上で、しばし読書です。今月号は僕好みの句が多いような気がします。
>ボーナスの出たような顔してをりぬ
埋火となりて時間の余りをり 後藤立夫
>秋逝くと目を細めては森濃くす
吐く息のうすうすと枇杷咲きそむる
思ふときその人来たり冬霞 岡本眸
>牧の柵果ては花野に入りゐたり
どんぐりを拾つてをれば胡桃落つ 橋本美代子
ところで、僕は今まで「引地川」は「ひきちがわ」だとばかり思っていたのですが、現地に来て知ったのは、本当は「ひきじがわ」だったということです。中には「ひきぢがわ」と書いた橋もありましたが、これは仮名遣いを間違えたのか、それとも僕のように「ひきち」だと思って作ってしまった後で間違いに気がついて、仕方がないから濁点を追加したのか、わかりません。
帰りは途中からいつもの境川に出て、我が家に向かいました。朝は雨が降ったり、霰が降ったり、変な天気でしたが、夕方にはすっかり綺麗な青空になっていました。
境川の土手にはコスモスがまだ綺麗に咲き残っていて、思わず自転車を停めてレンズを向けてしまいます。『俳句』12月号には、こんな句も載っていました。
>こすもすのをはりは草になりにけり
今井杏太郎
今度自転車で遠出をするのは、来年の春かな…
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勤労感謝の日は、三浦半島の津久井浜観光農園で蜜柑狩りです。ここは昨年初めて行ったのですが、景色がよくて味もよかったので、「来年もまた来よう」と決めていたのです。
蜜柑を二つほど食べて、お持ち帰り用の袋も一杯になると、僕はビニールシートの上に寝そべって、読書の時間。持って行ったのは、小沢昭一『俳句武者修業』(朝日文庫)。仲間たちと、「選評もなければ、互いに句を批判しあうということもない。ただ点を入れて、賞品のパンとかイワシの丸干しとかを交換し合っているだけ」という「やなぎ句会」を30年以上も続けてきた著者が、「本筋の句会」に押しかけて自分の句がどのくらい通用するか試してみようという楽しい趣向の本で、ぽかぽかと陽のあたる蜜柑山の斜面に寝転がって読むには、ぴったりです。
さて、全部で10の結社の句会に乗り込んで「修業」を目論んだ著者ですが、その感想は…
>この一年、毎月、各結社におじゃまして、それぞれの流儀に接してシゴカレテまいりましたが、どうも、それで上達するということにはならないようですね。…
思うに俳句という大樹は四方八方に枝を伸ばして、それぞれの枝が、それぞれ繁っているのでしょう。だから、どれかの枝の繁みで、その繁みなりに句を深めればいい。結社の先生がたは、みな一流を立てておいでで、お弟子さんもその先生流のもとで精進しておられる。それで正解なんですね。チョコチョコあっちこっちと流派を経巡っても、それで「修業」にはならないものとよくわかりました。
そういえば、蜜柑は樹によって味が違うようで、美味しい樹を見つけたら、その樹を集中的に攻めるのがいいみたいですよ! でも、その樹のてっぺんの方にある、一番美味しそうに見える蜜柑に手が届かないんだなあ。
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丸山健二が安曇野で庭造りをしていることは、図書館で見かけた写真集で知っていましたが、『安曇野の白い庭』(新潮文庫)を読んでみて、その情熱の傾け方の尋常でないことに驚きました。
350坪の庭のすべての作業を自分でやってしまうと言うのもすごいことですが、納得のできる「美」の実現のためには、一度植えて育った木でも容赦なく切り倒してしまうという思い切りのよさも、並みの人間の出来る業ではありません。
>美の追求とは残酷なものだ。加えるだけではなく、ときには引くこともしなければならない。無用と思った場合には、それ自体かなり貴重なパーツであったとしても、また、曰く因縁のあるものであったとしても、切り捨てなければならない。
美で重要なことは、あくまでトータルバランスである。全体の流れやトーンを乱す物であることが判明したときには英断を下さなくてはならない。
従って、子どもの頃からの思い出がいっぱい染みこんだ品々をどうしても棄てられない者は芸術家には適さない。手に入れた物に対する執着心が強い人間もまた然りだ。ところが、なぜかそういうタイプの人間が芸術に関わりたがる。
女と、女に近い男は、どうもそれが苦手らしい。新しい物をどんどん欲しがるくせに、古いものをいつまでも棄てないで取っておきたがる。それにひしとしがみついて生きようとする。結果として、ごてごてとした、雑然とした、美とは正反対の方向へ際限なく進んでいってしまう。そして、その乱雑さのなかに埋没し、窒息して、本物の美からどんどん遠ざかってゆく。
捨てることの苦手な僕にとっては、耳の痛い忠告です。捨てられないもののために、何と窮屈な思いをしていることか。理想の実現のためには、切り捨てることを躊躇していてはダメだというのは、もっとものことだと思います。
それにしても、口絵写真の「白い庭」の魅力的なこと! 実に惚れ惚れとしてしまう美しさです。(庭の真ん中に建つ家もまた庭と調和したすばらしい外観です。)
「庭の広さは一切関係ない。情熱とセンスさえあれば、僅か一坪にも満たない土地に壮大な幽玄の世界を構築することだってできる」という言葉を励みに、僕ももう少し頑張ってみるか!
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毎月10日は、角川書店『俳句』の読者投句欄の締め切り日。
投句を始めてそろそろ3年。毎回3句作るのが実に大変で、もうやめてしまおうかと何回も挫折しそうになりましたが、一度やめてしまったらそれっきりになりそうなので、なんとか頑張っています。今回もようやく先ほど出来上がり、はがきを投函してきたところです。このところ“ボツ”続きなので、もっと真剣に修行(修業?)しなくちゃいけないかなと思っています。
『俳句』の中では、「合評鼎談」と「俳句月評」を必ず読んでいます。この中から毎回いい俳句を発見することが出来るからです。次の句も、9月号の「鼎談」の中で見つけた最近の僕のお気に入りです。
>てのひらに薄暑のけはい忍びゐる 鷲谷七菜子
>家中の椅子みなちがふ竹の秋 川口真理
こんな句が自分でも作れたら、と思います。
ところで、10日の夜遅く投函しても、10日の消印を押してもらえるんでしょうか? そのことが気になりながらも、結局はいつもぎりぎりになってしまうんですけどね。
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友人から、次のような演奏会を企画したと案内が届きました。
「つくろう、つなごう、日本の歌」
波多野睦美メゾ・ソプラノ・リサイタル
(逗子文化プラザホールオープニングイヤー記念事業)
http://zushi-plaza.34-net.com/
平成17年11月26日(土) 15:00開演
逗子文化プラザ なぎさホール
曲目…よく知られた日本の歌(「からたちの花」など)のほか、三つの委嘱作品
委嘱作品のうち二つは逗子在住の詩人・高橋睦郎による作詞だそうで、興味をそそられます。
久しぶりに高橋睦郎の『私自身のための俳句入門』を開いて、線の引いてあるあたりを拾い読みしてみました。
>私たちは四季の変化に富む風土に住み、他のどんな民族よりも季感に敏いと思いがちである。そこまではまだよいとしても、原始古代から伝統的に季感に敏であったと考えかねないが、これは明らかに誤っている。四季の変化に富むとは、これを言い換えれば四季の変化の推移が緩やかだということであり、この緩やかさはそこに住む者の季感を敏にするよりも、むしろ鈍にする。
ほんらい季感に敏になるのは、もっと季節の変化の激しい風土に住む民族、具体的には大陸性気候の中に住む民族ではあるまいか。私たちの季感は彼らが海を越えて持ち来たり、教えてくれたものではないだろうか。
さらに著者は別のところでも「春夏秋冬」という概念は外来のものであったことを繰り返し、次のように続けます。
>季節感をいやが上にも敏感にしたのが、大陸から齎された季節の制度とわが国の季節の実際とのずれである。じっさいにはきびしい寒さの中にあるのに制度は春の訪れを感得せよとせきたてる。
そしてこのずれが生じさせる「不自然」な季節感が短歌、さらには連歌の行き詰まりへとつながり、俳諧への流れを作っていくという論の展開は、なかなかスリリングです。
また、今年の『俳句』6月号には高橋睦郎による「特別作品50句」が載っています。この人の句には広大な古典文学の世界を下敷きにしたものが多く、該博な作者の前で僕などはただひれ伏すしかないのですが、中にはこんな平明な句もあります。
>花火果て闇の豪奢や人の上
月光の透明の棒ひしめける
さて高橋睦郎による歌曲を聴きに逗子まで行ってみようかどうしようか、迷っているところです。
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歴史の「進歩」を疑う、「正義」を疑う、「普遍」を疑う、「グローバリズム」を疑う…
「環境」、「テロ」など山積する問題と格闘しながら生きていかなければならない僕たちに今、何よりも必要とされているのは、あたりまえと思わされていることを疑うこと、言い換えれば、自分たちの置かれている状況を相対化する視点を持つことではないでしょうか。
内山節の『「里」という思想』を読みました。筆者は群馬県上野村という「里=ローカルな場所」を確かな足場として、世界観を組み立て直そうとしているのです。それはすなわち、今なお僕たちを呪縛し続ける「近代」からの脱出の企てなのです。
>近代的な発想は、グローバルな発想や思想、システムに価値があり、ローカル性に基盤においたものを、あたかも古い時代のものであるかのごとく軽視したのである。その結果が、浅い知識だけで生きる人間の頽廃を生んでいる、と最近になって気づくようになるまで。だから、私も、いまでははっきり言うことができる。人間は少なくとも一方に、ローカルな世界をとり戻さなければいけない、と。
>経済の発展が環境の後退を招き、技術の進歩が人間の技や想像力を低下させたように、歴史はある部分だけみれば進歩し、また別の部分をみれば後退している。そのように展開しているだけである。歴史に進歩の法則などは存在しない。
>資本主義のもとでは、正義はつねに勝利者のものである。市場では競争という名の戦いがくりひろげられ、その勝利者は、自分たちの経済システムや経営方針に、経済活動上の正義をみいだす。…この文明は、勝利することによって正義を手にしつづける。
しかも戦後の世界は、第二次世界大戦を、ファシズム対民主主義の戦いと総括してしまった。そのことによって、戦争の勝利者に、絶対的な正義を与えてしまったのである。…
こうして、経済の面でも、政治や軍事力の面でも、正義は勝利とともにあるという文明世界がつくりあげられたのである。…
二十世紀の世界は、誰もがそれぞれの分野で勝利者になろうとし、勝つことによって正義を維持するかたちで展開した。このような世界のあり方が再び戦争を必要としているのだとすれば、検証されなければならないのは、私たちが身を置いているこの文明だという気が、私にはする。
>(たとえ平和のためであっても戦争を認めないという、戦後の日本的平和主義は)平和や正義のための戦争を肯定する「グローバル・スタンダード」の平和主義とは決定的に違う。…
平和は、世界のさまざまな地域に暮らす人々の考え方や暮らし方を、お互いに尊重し合わなければ生まれない以上、平和に対する考え方も、多様なものを認め合わなければいけないのだと思う。
僕にとってこの本は、自分なりにものを考え行動しようとする際の一つの足場となり得る本だと思いました。
内山節に注目していきたいと思います。
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横浜シティ・シンフォニエッタの第10回演奏会は、大盛況のうちに終えることができました。
今回のプログラムの作成は僕が担当したのですが、予算が少ないために印刷屋に出す事ができず、ほとんど手作りになってしまいました。その苦労して作ったプログラムがたくさん余ってしまうことになるのは実にもったいないことだと思っていたのですが、幸い多くのお客さんに来ていただき、さほど多くの残部を出さずに済みました。
よかった、よかった。
ところで今日、学校の図書室で『もったいない』という本(プラネット・リンク編、マガジンハウス)を借りて読んだのですが、実に驚くべきことが書いてありました。
>日本人が1年間に
使い捨てている割り箸は、
約250億膳。
96パーセントが、
中国からの輸入です。
割り箸に使われる木材の量は
120平方メートルの一戸建て
1万7000戸に相当します。
僕は今まで割り箸は国産の間伐材を用いていると信じていたのですが、違うのですね。
>輸入割り箸のほとんどは主に中国東北部でエゾマツやシラカバ、アスペンなどの天然林を伐採して作られていますが、一帯の樹木を樹齢などに配慮することなく一斉に伐採する「皆伐方式」をとっているうえに、その後の植林も十分に行われていないことから、森林の減少が進んでいます。
中国の割り箸1膳が約1.3円なのに対し、国産は約5円だそうで、これでは間伐材の利用は進まないわけですね。やはり割り箸の使用は、環境のためには控えた方がいいということなのでしょうか。
「お弁当に箸が入っていなかったので、割り箸を下さい」と言って職員室に来る生徒が毎日のようにいます。高校生のお子様を持つお母さん、お弁当に箸を入れ忘れないにしましょうね。(もっとも僕は、妻が作ってくれた弁当をよく家に忘れるけど…)
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仕事の忙しさに加えて、僕の所属するオケ(横浜シティ・シンフォニエッタ=YCS)ttp://homepage2.nifty.com/ycs/index.htmlの演奏会が近づくにつれてその準備も忙しくなり、すっかりこのブログも更新が滞ってしまいました。
この忙しい合間を縫って少しずつ読み進めてきたのが、『ガット・カフェ~チョロと音楽をめぐる対話』(鈴木秀美著)です。
朝日新聞の読書欄の小さな記事でこの本を知り、書店に注文したら、こんな素敵な本が届きました。造本の美しさに見惚れてし
まいます。
鈴木秀美はチェリストであり、ハイドンを中心に演奏をするオーケストラ・リベラ・クラシカの主宰者です。(と言っても、僕はハイドン愛好者であるにもかかわらず、迂闊にもこのオケの存在を知らなかったのですが…)そして、この本もまた、そのハイドンの魅力について存分に語ってくれています。たとえば初期の交響曲についてはこんな具合に…
>第一ヴァイオリンだけでとても静かに始まる第6番《朝》の冒頭は、いかにもこれから朝日が昇ってくる一日の始まりを思わせるが、その序奏に続くアレグロは、管楽器達が一人ずつこちらを向いて手を振っているような音型が登場する。スコアを読んでいるだけでも思わず微笑んでしまいそうなものである。…ハイドンは、「習作的」な初期の作品を経て後期のマスター・ワークスへ「進歩」したのではなく、初期は初期で違う味わい、これらもまた素晴らしい作品なのである。
本当にそうなんですよ。ハイドンは演奏するたび聴くたびに、至福の時をもたらしてくれて、裏切られたことがありません。以前、YCSで取り上げた第47番なんて、ニックネームも付いていない、まさに無名の曲ですが、演奏してみると実に味わいの深い曲で、ついでにその前後の曲もCDで聴いてみたら、それらがまたどれもそれぞれの魅力を持っているのです。
上の引用部にある第6番というのは、僕のようなファゴット吹きにとってはいかにも「美味しそうな」ソロがあって、ぜひ吹いてみたい曲の一つですが、104番まであるハイドンの交響曲の中には、まだまだ「ご馳走」がたくさん隠れていそうです。
ところで、この『ガット・カフェ』を読んでいて、ぜひ聴きたくなった作曲家がもう一人います。
ボッケリーニです。
著者は、チェロの師であるアンナー・ビルスマの次のような言葉を紹介しています。
>「ボッケリーニの音楽はね、素晴らしく大きな時計屋に入ったようなものだ。大きな柱時計の振り子はゆったりと、壁の時計がコチコチ、小さな時計が卓上でチクタクチクタク……と何百何千もの針や振り子が動いて音を立てている。けれど、店の中は”静か”で、誰も動いてはいない……」
時計といえば、有名な『時計』交響曲でなくても、ハイドンの音楽には時計の針の動きのような単純な音の列がしばしば見られ、その点でボッケリーニにも似た要素があるということでしょうか、ボッケリーニを批判的な意味で「ハイドン夫人」と呼んだヴァイオリニストもいたそうです。でも、僕にはその単純さが魅力に感じられてならないのです。
僕はさっそく、Ensemble415というグループが演奏する「弦楽クインテットop.39」のCDを買って聴いてみました。まさに「音のある静かさ」という表現がぴったりの、心癒される音楽で、なんとも幸せな気分にさせてくれるのです。
ハイドンにしても、ボッケリーニにしても、その中にまだまだたくさんの名曲が隠れていると思うと、ワクワクしますね。
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『源氏物語』の主人公はと訊かれたら、誰でも「光源氏」と答えるでしょう。
でも、『紫式部のメッセージ』(朝日選書)の著者、駒尺喜美は断言します。
>『源氏物語』の主人公は「女たち」である。
光源氏は「どのように幸せに見える女も、内面は不幸だということを展開するための仕掛けの役割をになっている人物にすぎない」と、著者は言います。女たちを主人公に据えることによって、従来『源氏物語』の中で異質なものと受け取られてきた「宇治十帖」が書かれた必然性も理解できるのだと。そして、「宇治十帖」も含めた『源氏物語』全体に込められた紫式部の読者へのメッセージとは…
>どのように善意の男、いい男と結ばれても女は不幸だ、ということを紫式部は書いたのである。これはもう、現代の認識でいえば、構造不幸、構造差別である。男性中心の社会構造の中では、人間関係、男女関係も男性中心、男性優位になってしまうのだ。
紫式部は「構造差別」と考えていなかったとしても、〈結婚〉というものを、女の側から広く深く観察し、考えつめていって、内容的にはそこに到達したのである。男の世界と女の世界がいかにくいちがっているかということは、この社会がいかに男女分断の世界をつくり上げているか、そういう構造に組み上がっているか、ということなのである。
著者は、光源氏の、薫の、匂宮の女性との交渉の場面における言動を具体的に取り上げつつ、いかに事が男性の都合のいいように運ばれていくか、また社会がそれを許す構造になっているかを明らかにしていきます。そして、そうした男性社会の本質を冷静に見つめた紫式部の、女性に向けてのメッセージを読み取ろうとするのです。
面白い本です。『源氏物語』をちゃんと読んでみようという気になります。
…でも、男性である自分が叱られているような気分になることも、確かです。
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『わかったつもり―読解力がつかない本当の原因』(西林克彦著、光文社新書)という本のタイトルと「わからない」ことよりも、「わかったつもり」でいることの方がはるかに問題だ!」という帯の文句が僕の眼に飛び込んできたのは、ちょうど『「わからない」という方法』(橋本治)を読んだばかりの僕の中で、「わからない」に対して敏感に反応する準備ができていたからでしょう。
>「わかった」状態は、ひとつの安定状態です。ある意味、「わからない部分が見つからない」という状態だといってもいいかも知れません。したがって、「わかった」から「よりわかった」へ到る作業の必要性を感じない状態でもあるのです。浅いわかり方から抜け出すことが困難なのは、その状態が「わからない」からではなくて、「わかった」状態だからなのです。…
「わかったつもり」の状態も、ひとつの「わかった」状態ですから、「わからない部分が見つからない」という意味で安定しているのです。わからない場合には、すぐその先の探索にかかるのでしょうが、「わからない部分がみつからない」ので、そうしようとしとしないことがほとんどです。
「読む」という行為の障害は、「わからない」ことだと一般には考えられています。このことは、「わからない」から「わかる」に達する過程では、そのとおりです。
しかし、「わかる」から「よりわかる」に到る過程における「読む」という行為の主たる障害は、「わかったつもり」なのです。「わかったつもり」が、そこから先の探索活動を妨害するからです。
著者は授業実践に裏付けられた適切な例を挙げながら、実にわかりやすく論を展開しています。読者はこの本を読みながら、文章が「わかる」とはどういうことか、さらに読みを深めるにはどうしたらよいかについて、知的興奮さえ覚えながら著者と共に考えていくことになるに違いありません。
著者はこの本について、「読むという行為の一つの側面にスポットを当てたに過ぎません」と言っていますが、僕にはこの本が明らかにしたことは実に重要なことだと思われます。
それから最後の章で、大学入試センター試験の問題を例に挙げて国語教育に対する提案をしている部分は、関係者はぜひ読むべきだと思いますよ。
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橋本治の『「わからない」という方法』(集英社新書)を読み終えました。
ちょうど並行して読んでいた『ドラゴン桜』と言っている内容が重なることが多くて(微妙に食い違っている部分もあるけど)、何度も桜木弁護士の顔を思い浮かべてしまったのでした。
僕がこの本から得た一番の収穫は、「わからない」の発見が「わかる」への第一歩であるという、考えてみればあたりまえのことに気づかされたことです。
>「わからない」をスタート地点とすれば、「わかった」はゴールである。スタート地点とゴールを結ぶと、「道筋」が見える。「わかる」とは、実のところ、「わからない」と「わかった」の間を結ぶ道筋を、地図に書くことなのである。「わかる」ばかりを性急に求める人は、地図を見ない人である。常にガイドを求めて、「ゴールまで連れて行け」と命令する人である。その人の目的は、ただゴールにたどり着くことだけだから、いくらゴールにたどり着いても、途中の道筋がまったくわからない―だから、人に地図を書いて、自分の道筋を教えることができない。「わかった」の数ばかり集めて、しかしその実「なんにもわからない」のままでいるのは、このような人である。
そして橋本治は「途中の道筋」においては「体を使え=身体に覚えさせろ」ということを強調するのです。
ところで僕はこの部分を書き写しながらも、桜木弁護士が水野と矢島の二人に1年の数学の授業をさせる場面を思い出してしまうのです。水野も矢島も「途中の道筋」がわかっているから下級生に教えることができるわけですね。
なんだかすっかり『ドラゴン桜』にハマッてしまったなあ。
第10巻、いつ出るんだろう…
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貴重な時間を無駄にしてしまったのかもしれません。
正高信男の『考えないヒト』のことです。
「はじめに」の中には、「専門的知識を駆使して、実証的な立場から分析する機会が与えられたことを、素直に喜んでいる。」とあるかと思うと、同じページに「一連の推測がまたったく私の見当はずれである可能性も大いにある。だが趣味でしている作業なら、的はずれであったとしてそれが益にならないとしても、またさして害になることもあるまいと、執筆した次第である。」と書いてあるのですから、ひどいと思いませんか? ですから最初からこれは眉唾物かも、という警戒心はありました。しかも「はじめに」の最後は、「この本を手に取られた方は、宝くじでも買ったつもりで、つき合ってくださると幸いである。」と締めくくっているんですよ!
さて、前回の記事で取り上げた部分のように、「なるほど」と思いながら読んだ箇所も少なからずあったものの、肝心なところではやはり説得力に欠ける内容だったと言わざるを得ません。たとえば、
>(ケータイ人間とは)ネット上においてと、ネットを介さない、いわゆる日常の生活においてで、対極をなすような対照的な生活をめざしている印象を持つ。
その典型が、異性との交渉の場面で見られる。つまり、現実では散文的な性関係を維持する一方、ネット上では純愛に近いロマンスを展開する。あえて乱暴な表現をとるならば、現実にはヒトとしての動物的な振る舞いに徹し、生物としての欲求の充足をめざす。他方、ネット上では文化的行動を志向するとも言い換えることができるだろう。前者の状況では、身体的行動をとり、後者では精神的な願望を充たそうとするともいえる。
これでは、現代人の生態の捉え方があまりにも「乱暴」に過ぎると感じてしまうのですが、どうでしょう。
今回はうっかり「中公新書」の中のハズレくじをひいてしまったような気がしています。
本物の宝くじ買った方が良かったかな…
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ある本を読んでいてわからなかった場所の意味が、別の本を読んでいてわかったという経験、ありませんか?
今日の僕は、まさにそんな経験をしました。
『考える人』という雑誌の最新号の特集(「心と脳」をおさらいする)の中に、「心は、自分が内省するためだけに生まれたのではなくて、社会におけるコミュニケーションにその源流があるのではなかろうか。(甘利俊一)」という記述があるのですが、その前後をよく読んでも具体的なイメージが湧かないためにどうしてもすっきりわかったという気持ちになれませんでした。
ところが、次に今日買ってきたばかりの『考えないヒト―ケータイ依存で退化した日本人』(正高信夫著、中公新書)を読み始めるとすぐに次のような箇所にぶつかり、さきほど引っかかっていた部分がスッとわかったような気がしたのです。それは、チンパンジーがニホンザルと異なり、手に入れた食物を自分より劣位の個体に分け与える事によって平等主義を遵守しようという「気配り」を見せるという記述のあとに続きます。
>(ニホンザルが生存のために「仕方なく」みんなと一緒にいるのに対して)チンパンジーは群れに「好んで」加わっている。それは、「気くばり」してくれるからにほかならない。
さらに、「気くばり」してもらうことをうれしいととらえる感受性が、気くばりする意識とともに、社会性のもとを形成する。単に食物が手に入ってありがたいというのではなく、互助的交渉ができることそのものをエンジョイできるようになったとき、人間的な社会が作り上げられる基礎が整ったのだろう。
これはまさに先ほどの、「心」の源流が「社会におけるコミュニケーション」にあるという説明の具体例になっているではありませんか。『考える人』を読んでいてわからなかったことが『考えないヒト』を読んでいてわかったのです!
さらに僕は、読んだばかりの『もう登らない山』(串田孫一)の次の箇所を思い出しました。
>私達が山へ画帳を携えて行ったり、写真機を用意して行ったりするのは、今は一つの山登りをする人たちに共通した習慣かもしれないが、山を歩きながら素晴らしい姿、珍しい山の自然に出会った時には、何とかしてこれを持ち帰りたいと、極く素直に思う。
そしてそれを戻ってからゆっくり味わったり、親しい人達に見せながら、伝えたいと願う。その心は素朴で貴重である。
確かに、人の心の動きというのは、その人の心の中だけで完結するものではないように思います。
例えば登山者の視界に突然神々しい高峰の連なりが飛び込んできたとき、その登山者はきっと心の中で誰かに向かってその感動を語り始めることでしょう。その感動を共有したいと願う誰かに向かって。
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夏休みは家族で恒例のキャンプに行きました。
キャンプといっても、車で行くお手軽オートキャンプですけどね。
キャンプの一番の楽しみは、テントを設営し終えたあとの冷たいビール!
それから、ひんやりした山の朝の空気に包まれながらの読書。
今年用意して行った本は串田孫一の『もう登らない山』。
家族が寝ているうちに起き出して、携帯用ガスコンロでお湯を沸かしてコーヒーを飲みながら本を広げる、この幸せ! ところが今年は、さあ読もうというところで、子供たちももぞもぞと起き出して来て、残念、ほとんど読めませんでした。ああ、もっと早起きすればよかった!
そんなわけで、結局はまたいつもの通勤電車の中で、ちょっと大きめのハードカバーの本を広げているのです。
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読むと元気が出てくる小説というのがあります。
僕が読んだ中で、まず最初に思い浮かぶのが椎名誠の『銀座のカラス』。
そして、今回読んだ南木佳士の『医学生』も、その仲間に加えたいと思います。
>説明すると長くなるので省くが、私は純文学と大衆小説の区別は明らかに存在すると思っている。芥川賞の対象になる作品と直木賞受賞作は違うのである。
『医学生』は意識して大衆小説にした。なぜなら、病んだ私は気軽に読めるものが欲しかったからである。書きながら自分が安らぎたかったからである。(「五年遅れのあとがき」より)
たしかにこの作品は娯楽的な要素が強い。性的な関心をくすぐる部分も少々あって、筋は読者の期待にほぼ添うように進行します。著者はあとがきで「肩の力を抜き、己を救うためのユーモアを交えた小説を書きたかった」とも言っていますが、読んでいる方も、優等生とは言いがたい学生達がそれなりに前向きに生きる姿に共感し、ほっと救われる思いがします。
四人の医学生のうちの一人、妻子もある二十八歳の今野修三はもと高校の教師ですが、生徒の死をきっかけに医者になる決心をし、学習塾をしながら医学部に通っています。その修三が同じ実習グループの雄二に「子供ができると何か変わりますか」と聞かれ、答えた言葉が印象的でした。
>「そうだなあ。子供ができるとどこか深いところに安心感が生まれるな。動物として子孫を残せたっていう安心感かな。…安心感ていうのは停滞を意味するわけじゃないぞ。それをバネにして自分をもっと高いところに跳ね上げてくれるものになったりもするんだぞ。…」
この『医学生』を読んで出てくる元気も、自分の人生もまあいい人生じゃないかという安心感から生まれるのかも知れません。
こういう小説も、たまにはいいな。
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『自分づくりの文章術』(清水良典著)は、文章を書くにしても読むにしても、完成品に至らなかった「断章」、あるいは完成品の「部分」としての「断章」の価値を積極的に認め、それを楽しむことを勧めています。
>完成した作品の全体から断片を見出して楽しむこと。その取り出された断片を「全体」の「部分」として位置づけるだけでなく、独立した文章の価値として読む。そういう読み方だって自由なのである。
また、「読書ノート」について、次のように言っています。
>いわゆる「読書ノート」というのは、本を読んだ感想が書き並べられているだけで、どんな文章を読んで感心したのかという肝心のテキストは見えてこない。読んだ直後はここがいいと思ってはっきり覚えていても、時間がたってから読み返そうと思って探したら見つからないことが多い。
ページを折ったり付箋を付けたりするのも一つの方法だが、一番いいのは気に入ったテキスト本文を書き写しておくことだ。ほんの数行の部分でもいいし、途中が冗漫であれば「中略」を入れて端折ってもいい。つまり「断片」を選出するのだ。
これは僕がこの「つまみ食い的」ブログを始めた時の発想と全く同じで、賛同者を得て励まされたような気分です。
夏休みの宿題の定番になっている「読書感想文」についての著者の意見にも全く同感です。ほとんどの児童生徒にとって、「苦役」を強いる以外の何ものでもない「感想文」はやめて、抜粋を中心とした「紹介文」のようなものにかえた方がいいのではないかと、以前から思っています。
それにしても、抜き出した「断片」がたくさん集まって「その目の付け所や趣味やセンスの集積が、ひとつの人格のような性格を帯びてくる」ということになると、他人の書いた「断章」の寄せ集めとはいっても人目にさらすのはちょっと気恥ずかしさを伴うことにもなってしまいますね。
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どうして「私が線を引いて…」ではなくて「僕が…」なのか?
それは自分を「僕」と呼ぶのが僕にとって一番自然な言い方だからです。
人前でちょっとかしこまって話をする時は「ワタシは」なんて言ってみるのですが、途中でつい「ボク」が出てしまってバツの悪い思いをしたことが何度もあります。無理をするのはやめておこうと思います。
『自分づくりの文章術』(清水良典著、ちくま新書)を読んでいて、次のような箇所を見つけました。
>私たちが日常用いている一人称は「ぼく」や「わたし」や「あたし」や「おれ」であって、「私(わたくし)」とは滅多に使わない。「私」はいわば“公”の挨拶や報告の場合にだけ、背筋を伸ばして口にする言葉だ。だから逆にいえば、公的な作文の場合には「私」と書けばよいわけだが、普段使っていない呼び方で自分を名乗るのは自分の本心や感情から、どこか乖離してしまう。「私」を選んだ瞬間に、人格も何かフォーマル・スーツを着込んだような“公的な自分”になってしまいそうな気がする。…私たちが文章で書くということは、このように出発点の一人称からすでに心理的な抵抗を含んでいる。
著者は「私」を「妙に人工的で抽象的な一人称」だといい、さらに次のように続けています。
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今日の朝刊の社会面に「串田孫一さん死去」の記事を見つけて、ちょっと寂しい気持ちになりました。
国語の教科書に載っていた「表現のよろこび」というような題の随筆を読んだのが、おそらく串田孫一との最初の出会いだったのではないかと思います。
その後、山登りの楽しさに目覚め、大学では美学を勉強しようかなどと考えるようになった僕は、登山家の一面を持ち音楽愛好家でもある哲学者串田孫一を、最も魅力を感じる文筆家の一人として意識するようになりました。僕の本箱には『山のパンセ』『山の独奏曲』『若き日の山』『北海道の旅』などが深田久弥や辻まことと一緒に大切に並べてあります。
その中の一冊、自然や芸術や哲学に関する文章を集めた『自然と美と心』という本の目次を見ると、「ユーモアにはざらざらした笑いはないはず」という題の上に鉛筆で丸印がついていて、本文を見ると、「真面目な態度とユーモアとは無関係なものではないということを認める僕は、ユーモアの入り込む余地のない真面目さは、やはり、あやしいものと思わざるをえない」というところに線が引いてあります。さらにその先から線の引いてあるところを拾ってみると…
>ユーモアはいつの世にも大切なものである。それは人間がお互いに慰め合う知恵である。深い深いものである。その深いところに、人間の気まじめな営みがあり、善意の微動があり、お互いに過去を許し合う寛容があり、誰もが陥りやすい悲しみから救い出そうとする努力があり、怒りを鎮めようとするやさしさがあり、とげとげしい愚痴をかるく、やわらかく撫でてやろうとする同情がある。もっともっとたくさんの人間の理想的な心情の動きがひそんでいるはずである。
>ある人々はユーモアをひたすらに排除する。文藝の中でも、日本流に一つの伝統さえ築きながら育ってきた有用なユーモアの要素が確かにあるが、それさえも悪ふざけのように思いちがいして、下らないものとして排除する傾向が僕には感じられてならない。…大衆文学とか純文学とかいう区別があっても悪いことではなさそうだが、おかしくなるようなことが書いてあるために、その作品から点を引く傾向がもしあるとすれば、それは悲しいことである。
おそらく、自分には哲学を勉強する頭はないと諦め、井伏鱒二の初期の短篇や深沢七郎の作品と出会い、卒論は「文学とユーモア」というようなテーマで書こうかと考え始めた頃に読んで線を引いたのでしょう。
誠実で感性豊かな思索家を失ったことはとても残念ですが、四百点を超える著作が遺されたことを、喜びたいと思います。
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…というわけで、大いに期待して読んだ芥川の「秋」でしたが…
ひとことで言えば、古風な恋愛小説。現代人に訴えかけてくる力は弱いんじゃないかな。
でも、南木佳士が「最高」という理由はわかるような気がします。僕が読んだ新潮文庫の「解説」で中村真一郎がこの「秋」に触れて
>人間性そのもの、あるいは世界の在り方そのものの持つ、本来的な不条理さを見抜いており、それを大事に慎重にすくいとって、作品の中にそっと生けどりにしている(下線部は原文では傍点)
と書いているのは、南木佳士の小説にもそのまま当てはまるように思うのです。
今、鞄に入れて通勤の電車で読んでいる本は、南木佳士『医者という仕事』(朝日文庫)。最初の数編を読んだだけでもやたらと目につくのが「優しさ」という言葉。
>三十代半ばから四十歳代の働き盛りの医者仲間たちと雑談し、話題が大学受験の頃のことに及ぶと必ず出てくる結論がある。
今、おれたちがやっている仕事の内容から考えて、あれほど難しい入学試験は必要なかった。そして、入試のときに最も問われるべき資質は、学力ではなく優しさであった、と。
人間の優しさってなんだろう。本当の優しさは、人間の「本来的な不条理さ」を見抜いた者のみが持てるのではないだろうか。いや、それとも…
夜になっても熱帯のような暑さの続く道を、自問しながら家に向かったのでした。
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随筆集『ふいに吹く風』より
>反省のないものに潰瘍はない。(「記憶の回路」)
>酒を飲むためには元気でなければならない。(「酒を飲む元気」)
>人間生活の裏がみえすぎるために、どこかにやさしさを求めずにはおれない寂しい皮肉屋。これが表現者の実像である。(「表現者」)
>不自由の足かせのない自由は本物ではない。(「一所懸命」)
ところで、南木佳士は『ふいに吹く風』の中で何度も芥川龍之介の小説『秋』について言及しています。
>高校時代には文庫で手に入るかぎりの芥川龍之介の作品を買い集めた。そして彼の最高傑作は『羅生門』でも『河童』でもなく、とても地味な『秋』という小品であると勝手に決めたりしていた。(「精神のペースメーカー」)
>芥川の作品が好きで、高校までにはほとんど全作品を読んでしまった記憶がある。今でも秋になると、彼の最高傑作と思っている『秋』をゆっくり読み返してみたりする。(「淘汰される本」)
…こんなこと言われたら、今すぐにでも『秋』という小説を読んでみたくなるではないですか。
秋まで、待てません。
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昨日の「朝日」朝刊の一面の見出しは「文学賞異変」。文学賞の創設ラッシュを報じているけれど、トップを飾るほどの事件なのかな?
僕の場合、受賞作に飛びつくということはほとんどなくて、『夜のピクニック』という小説がラジオ番組の中で紹介されているのを聞いたときは絶対読みたい本だなと思っていたのに、その後「本屋大賞」というのを取ってやたらと話題になってくると、こうなったらそのうち文庫になって古本屋にも並ぶようになるだろうから、その時になってから読めばいいやと思っているくらいです。
で、今読んでいるのは、芥川賞作家、南木佳士の随筆集『ふいに吹く風』。
前回取り上げた小説『海へ』の中に、筆者自身の分身と思われる語り手が、高校時代の現代国語の老教師がつぶやいた「比喩は危険だから、用いる時は一日じっくり寝かして納得できたら話すか書くかしなさい」という教えをものを書くときの戒めとしてきた、と語る一節があります。南木佳士の文章の魅力の一つが、卓抜な比喩にあることは間違いありません。
>事実とは畑で抜き取ったばかりのゴボウとおなじで、見てくれもよくないし、アクが強くて食えたものではない。ゴボウを洗い、アクを抜き、きれいに削って油でいためるからこそ食ってうまいキンピラゴボウになる。ある程度の辛味も必要だから唐辛子を入れる。事実も、それに適度の創作を加えることによって、世間の常識の裏に隠されていた真実が現れてくる。人間が存在することの不確かさにまで触れる真実は万人の共感を呼ぶ。(「酒について」)
これは、酒の席で人を面白がらせる話のことを言っているのですが、小説執筆の奥義に触れているようにも読めます。
>先日、二十二年ぶりに高校一年時の同級会が開かれた。…同級会に集まった仲間の顔を見ていると、二十二年前、舞台裏の楽屋で下着姿を見せ合っていた者たちが、それぞれの役にあった衣装を着けて舞台に立っているような気がしてならなかった。男たちの中には、早くも自分の役に飽きている顔があった。(「紫陽花の咲く頃」)
芥川賞候補になりながら結局落選した時の経験を、すごい美女に誘われながら結局はふられてしまう男に喩えた「芥川賞の待ち方」は、愉快な文章です。
>指定されたロビーで待つこと数時間、女はあらわれない。…あんな美しい女と酒が飲めるなんて、本気で想い込んだおまえがバカなんだよ―男はゆがんだ笑顔を星のない夜空に向ける。芥川賞に落選したときの気分はこのとおりである。
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…男は防波堤の突端で、高校をさぼってイワシを釣っている、友人の娘の千絵ちゃんを見つける。「ねえ、おじさん、こんなところよりもずっといい場所がありますよ。」と誘われるままに、男は海に臨む洞窟に入り込む。
>中年男 草餅、食うよ。たっぷりと歩いたんで、腹減っちゃったよ。
女子高生 わたし、火をおこしますからね。それと、はい、飲み物。缶のお茶ですけど。
中年男 なに、そのバッグ、いろんなものが入ってるんだね。
女子高生 今朝は家を出るときから学校へは行かないって決めていましたから、いろんなものを入れてきました。百円ライター、カットバン、スポーツドリンク、食パン……、あっ、一応教科書もありますよ、現代文の。
中年男 どれ、現代文てのを見せてくれる。息子たちの教科書なんて見たことなかったし、おじさんたちのころは現代国語っていってたよな。
女子高生 はい、どうぞ。
中年男 なるほどなあ、黒崎政男のエッセイ、和辻哲郎の評論、金子光晴の詩、村上春樹の小説まであるんだなあ。……この最後の方にあるホーソンの「大望の客」のページはすごいね。ピンクのマーカーがびっしり塗られてるね。
女子高生 その短篇、とても好きなんです。わたし、春休みに新しい教科書を買ったとき、現代文だけはすぐに全部読んでしまうんです。それで、この教科書のなかではそのホーソンの「大望の客」がいちばんいいなって思ったんですけど、…
興味をそそられた中年男性のために、書名をお教えしましょう。
『海へ』南木佳士著。文春文庫から出ています。最近現代文の教科書で「ウサギ」という短篇を読んで、南木佳士という作家に興味を持つようになりました。現代文の教科書にピンクのマーカーでびっしり線を引く女子高生にも興味があるけど…
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樋口裕一という名前を最近やたらと目にするので、僕も何か読んでみようかなと思っていたら、自分の本棚に『日本語力崩壊―でもこうすればくい止められる』(樋口裕一著、中公新書ラクレ)という本があるのをたまたま見つけました。
なんだ、読んでいたんだ。(読書ノートで確認したら、2001年11月に読んでいました。忘れちゃうもんですね。)
しかも、中を見ると、あっちこっちに線も引いてある…
>小論文と作文の違いは何か。
実は、子どもたちには、それがまずわからない。何かを「論じる」のが小論文、そうでないのが、作文だ、という従来の説明では納得できない。
だが、もっとわかりやすい説明の仕方がある。論じるというのは、ある問題に対してイエスかノーかを答えることなのだから、一言で言えば、「小論文」というのはイエス・ノーを答えるもので、作文はそうではない、ということになる。
また、「国語力」の基本は「知識」であり、その知識を増やすためにはたくさん本を読むことだと言い、子どもを本好きにするために「してはいけない十か条」を挙げています。
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今朝の朝日新聞土曜版によると、新書ブームを支えているのは中高年のおじさんだということだけれど、僕も本屋に入るとまず新書の棚へ、というのが最近のパターンです。見るたびに新しいのが出ていますからね。
最近創刊した「ちくまプリマー新書」というのは若い人がターゲットのようだけど、発売予定も含めたラインナップを見ると…うーん、僕が読みたくなるような著者名・題名がずらっと並んでいるなあ。
山本容子 『絵を描いてみよう』
藤森照信 『ヒトはこうして家をつくってきた』
赤瀬川原平 『見ることを楽しもう!』
南伸坊 『眼で考える』
養老孟司 『考えるってどういうこと?』
高橋源一郎 『教科書にのらない小説』
僕が特に興味をそそられたのはこんなところです。
で、今日はこの「ちくまプリマー新書」の第一弾として出た橋本治の『ちゃんと話すための敬語の本』についてです。
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勤め帰りにときどき寄る古本屋で、「俳句からhaikuへ」という帯のついた本(『明治大学公開文化講座ⅩⅤ 越境する感性』風間書房)を見つけました。四本の講演記録を収めた本で、その中の一つに興味があったので、100円を投資しました。
俳句は「haiku」として広く海外でも愛好されていると言われますが、マーク・ピーターセンは、いくつかの例をあげながら英詩の中に「俳句的感性」を示す作品があることを認めつつも、次のように語っています。
>基本的には、日本語の俳句の魅力は日本語を母国語とする人間にしか十分に鑑賞できないと思います。それに、私の見方では、haikuは、日本語の俳句のこころや様式とはずいぶん違います。(「外から見た日本的感性―俳句からhaikuへ―」)
英訳されたhaikuを読んでも、外国人のhaikuを読んでも、これは「俳句」とは違うなあと感じていましたが、日本語(日本文化)にも英語(英米文化)にも通じている人でないと、「ずいぶん違う」とまでは言い切れないでしょう。外国人の俳句受容について書いた本に『海を越えた俳句』(佐藤和夫著)というのがあり、10年以上も前ですが面白く読んだ記憶があります。その中に次のような一節があって、ちょっと気になっています。
>外国人のハイクの世界は、今日なお、江戸時代の俳諧によって形成されている。彼らが翻訳によって読む俳句のほとんどは、依然として芭蕉、蕪村、一茶など江戸期の俳人、そしてせいぜい子規の作品である。いわば彼らはタイム・カプセルのなかに住んでいる。
マーク・ピーターセンも次のように言っています。
>日本の俳句を紹介するパターンとして、まずはTHE FOUR GREAT MASTERSを基本として紹介します。この四人の大俳人は、芭蕉、蕪村、一茶、子規です。
かつて外国人が日本に対して「サムライ」とか「ゲイシャ」というイメージを持っていた(今でも持っている?)のと似たようなことが、haikuに関しても起きているのでしょうか。芭蕉や子規が絶対に作らなかった、たとえば
>冷房に海の匂ひのまま眠る 仙田洋子
のような句(最近見つけた、僕の大好きな句です)は、どのように外国語に翻訳され、どのように読まれるのか、とても興味があるところです。
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『能力を高める 受験勉強の技術』(和田秀樹著)を面白く読みました。
受験勉強を悪く言う人が多いけれど、人にとって必要な能力を身につけるいいチャンスとして積極的に評価しようよという筆者の意見に、僕も賛成です。「関心・意欲・態度」を加味して評価するという新しい学習指導要領が、相対的にテストで点を取ることに対する価値を下げたのではないかという問題提起も、なかなかするどい点をついているのではないでしょうか。学力低下を食い止めようという筆者の真剣な思いが伝わってくる本です。
覚えることの苦手な僕としては、記憶のための三段階(入力、貯蔵、出力)のうちの三つ目の重要性を説いた次の箇所が印象に残りました。
>私は日本人の大人になってからの勉強について、この出力トレーニングが足りないことが問題だと考えている。知識をひけらかすことが恥かしいことだという文化のためかもしれないが、書斎の人や読書家といわれる人は多くても、それを有効にアウトプットしている人は少ない。ホームページやブログなど発信のチャンスは増えているのだから、それをしないのはいかにももったいない。
ブログに「出力」することで、読書によって「入力」された内容が記憶として自分の中に定着していくというわけですね。最近はブログのために寝不足になって翌日が辛いこともあるけど、これからも頑張ろうかなって気になりました。
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『〈学級〉の歴史学―自明視された空間を疑う』(柳治男著)という本を読みました。示唆に富んだ労作で、傍線ばかりになってしまいましたが、まだ自分の中で消化しきれていないという感じです。とりあえず、二箇所だけ抜き出しておきましょう。
>(日本では)村落共同体が、生産機能、生活機能、政治機能、祭祀機能をすべて包含する重層的存在であると同様、「学級」もさまざまな活動が重層的に累積した集団となったのである。こうして、学校での子どもの場所の移動がはるかに少ない「学級」が作り上げられた。移動が頻繁に行われる西洋の学校とは異なって、教室が子どもたちの定住の場になっているわが国の学校では、教室は教育と学習の空間であるばかりでなく、生活の空間にもなるのである。
>学校五日制の導入時から、「学校のスリム化」ということが強調された。しかし事態は一向に変わらない。確かに土曜日は休みになったが、平日の仕事の多さに、多くの教師は忙殺されている。チェーン・システムとしての学校におけるハードウエアの存在が、明確に認識されない限り、「学校のスリム化」が実現不可能であろう。学校が何でもやれるところだと信じている人は、多いのである。
「チェーン・システムとしての学校」については、筆者はマクドナルドのようなファースト・フードのチェーン・システムと学校の類似点を挙げながら、面白くかつ説得力のある論を展開しています。学校の機能には限界があるのに(マクドナルドはハンバーガー屋さんなのに)、ありとあらゆる事柄が学校の仕事とされてしまうのは(フランス料理のフルコースを注文してしまうのは)問題である、という筆者の指摘は、まさにその通り、と思わざるを得ません。
でも…
(次のような記事を見つけました。)
http://toshiyukikihara.cocolog-nifty.com/puppy/2005/04/post_6ef8.html
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今日は、子どもを連れて近所の自然公園に行き、半日を過ごしました。咲き残った山桜と芽吹き始めたばかりの木々の色の配合がみごとでした。
公園の中には田圃もあり、小学4年生くらいの子ども達が水の流れをせき止めたりして遊んでいましたが、蛙の卵でも見つけたのか、中の一人が大きな声で「古池や蛙飛びこむ水の音」と叫んでいました。やはりこの句、日本人なら誰でも知っている俳句ということになるんでしょうね。
さて、『俳句』(角川書店)の今月号(4月号)の特集は「国民的俳句―極め付きの3句」というもの。「一流性と一般性」の両方を充たす句、つまり「誰からも愛されて、しかも質の高い俳句―まさに「国民的俳句」と呼ぶにふさわしい句」を、第一線で活躍中の30人の俳人に選んでもらうという企画です。
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今年はベランダのホウレンソウがよく育っていたのですが、もう少し大きくなってから収穫しようと思っているうちに、あっという間にアブラムシにやられてしまいました。しかも、急に暖かくなったので、茎も伸びてしまって、そのうち花が咲きそうです。
![]()
(これは3月19日の写真。このとき収穫してしまえばよかったのに、もっとでっかくしてから食べようと欲を出したのがいけなかった…)
ところで、榊莫山は『自家菜園の愉しみ』の中で、次のように書いています。
>ナノハナという植物はないそうだ。アブラナとかダイコンとか、ハクサイ、キャベツとかの花が咲けば、みんなナノハナなのだそうである。そんなこととはつゆ知らず、小学唱歌の“朧月夜”の唄いだしが「ナノハーナ畑に入り日うすれ……」だったので、わたしはアブラナ(ナタネ)の花だけがナノハナかと思っていた。
念のため、『日本国語大辞典』で「なのはな」をひいてみると、
>【菜花】《名》アブラナの花。葉や根の形が異なるカブ、コマツナ、ハクサイなども花がよく似ているため一般には区別されずに呼ばれている。
とあります。以前、うっかりコマツナの花を咲かせてしまったら、それが思いのほかきれいだったので、それ以来わざと何本か残して花を楽しむようにしていました。今年はコマツナは蒔いていないし、こうなったらもう「ホウレンソウのナノハナ」を思いっきり咲かせるしかないですね。
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本を読んでいて、「そうだ、その通り!」と思ったところや、「そうか、そうだったのか!」と思ったところがあると、線を引きたくなります。
『読書力』(齋藤孝著)は、「そうだ、その通り!」の連続でした。たとえば、
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一昨日の話。
急な用事ができて最寄の駅の近くまで自転車で出かけたのですが、そこでは用が足せずに、電車で15分先の駅まで行かなくてはならなくなりました。ところが、電車の中で読む本を持っていません。たった15分でも本を持たずに電車に乗るのは耐えがたいので、近くの本屋に直行。こういうときは、つい慌ててつまらない本を買ってしまいがちなので、慎重に選びます。でも、ゆっくり選んでいる時間がない。小さな店の中を3周くらい回って、最後に「えいっ!」と覚悟を決めて(それほど大げさな話じゃないけど)選んだのが、岩波新書の『読書力』(齋藤孝著)。今回の選択は、大正解でした。
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今日は、しばらく飾ってあった雛人形を片付けました。
>昔は(今もだと思いますが)「雛祭が終わったらお雛様を早くしまいなさい」といわれました。それは、もともと雛は人の穢れを移して川や海に流すものだったのに、そうしなくなったからだと言われています。
これは、『季語の底力』(櫂未知子著)の中の一節です。櫂未知子は、行事は「続けやすいか」「楽しいか」「美しいか」の三つの条件のうち、二つを満たしていないといけないと考え、「節分の豆撒きは、継続しやすく、ゲームのようで楽しいという二点を備えており」、「雛祭は三条件のうち、「楽しい」「美しい」をじゅうぶんに満たしてくれています。」と書いています。そして、クリスマス、バレンタインデーについても、「それがどんなに軽佻浮薄に見えても、多くの人が選択し、続ける行事には何らかの理由があります。」と、肯定的です。
明日は3月14日。今日は一緒に買い物に行った娘に、ちょっと贅沢なお菓子をねだられてしまいました。そりゃ、バレンタインデーの手作りチョコレート、美味しかったけどね。
…ホワイトデーって、いったいなんなんだ?
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昨日「笑っていいとも」を見ていたら(なぜかそんな時間に家にいたわけですね)、タモリとゲストの片岡鶴太郎(友達じゃないけど、以下「鶴ちゃん」)が、ちょっと面白い事を言っていました。
鶴ちゃんがどうして歳をとってから絵や書に手を染めるようになったか、という話のなかで、タモリ「書道は楷書から入るって言うのが間違っているんじゃないの?」 鶴ちゃん「お手本とおんなじに書けっていうのが変だよね、最初はもっと自由に書かせればいいのに」 タモリ「毛筆ってのができた時は、こんなにくねくねっていろいろ線が引けるのが嬉しかったはずだよね」というようなやりとりがあったのですが、僕も「そうだよなあ」と深くうなずいてしまったのでした。筆を持たせてまずは好きなようにやらせてから、頃合を見計らって「書道」にもっていくという手もあるよなあ、と。
ここで話題は「書道」から「作文」へと、やや強引につながっていきます。
斎藤美奈子は『文章読本さん江』の中で、学校で習う「作文」や「読書感想文」が「学校という特殊な場所で独自の進化をどげ」「すっかり伝統芸能の域に達してしまった」ことを指摘していますが、「伝統芸能」と言えば「型」がつきものなわけで、たとえ心にもないことを書いていようと、その「型」にのっとって書くことが作文の「テクニック」ということになります。(斎藤美奈子は「型」という言葉は使ってなかったかもしれないけど)
>学校作文のテクニックにひいでた要領のいい子どもはまんまと作文優等生になれ、「思った通り」「あるがまま」を馬鹿正直に遂行しようとした子どもは、いい点数が取れない。こんな虚偽にみちた作文教育を六年も九年も受けてきたら、学校作文不信にならないほうがおかしい。
さて、ここから話題を今学校現場で取り沙汰されている「評価」の問題へとつなげる事もできるのですが、今日はここまで。
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欲しいモノはいっぱいあるけれど、本当に必要なもの以外は持たないシンプルな暮らしに対する憧れもあります。
3月4日の朝日新聞(夕刊)に「9坪ハウス」の記事が載っているのをみて、久しぶりに本棚の『9坪の家』(萩原修著)を取り出しました。子供のいる家族が「最小限住宅」のような小さな家に住もうとすれば、どうしても今の暮らしそのものを見直さなければなりません。
>モノと収納との関係。これは、小さな家に住むために避けて通れない問題だ。どのぐらい収納スペースが必要なのか。
収納特集は、インテリア雑誌の定番である。収納特集だと売れるらしい。…モノが多くてかたづかなくてこまっている人がたくさんいるのだ。
>新しい生活を考えるときには、テレビや車などあってあたりまえなモノを、自分たちの生活に本当に必要かと疑ってみる必要があるのかもしれない。…気がつくと、いらないモノまで家に侵入しているかもしれない。これからは、勝手にモノを盗んでいくどろぼうよりも、勝手にモノをおいていく犯罪が増えるかもしれない。
現に粗大ゴミの不法投棄などは、「勝手にモノをおいていく犯罪」ですよね。
>ほんとうは、「適正な住居の大きさ」があるはずなのだ。地球環境や高齢化が問題になり、生活の在り方を根本的に見直す時期にきている今こそ、もう一度、1950年代に建築家が手がけた「最小限住宅」から学ぶ必要があるのではないだろうか。そこには、現代でも通用する住居の原型がいくつも発見できるだろう。すばらしい空間と、これからの生活様式。贅沢ではなく身の丈にあった暮らし。
僕も3年前に家を建てた時、『9坪の家』のシンプルな暮らしぶりに共感して、いらないモノは極力捨てようと思ったけれど、これって難しいんですよね。でも、何かモノを買おうという時、「これって本当に必要なものかな?」と考える習慣はついたと思っています。
それにしても、萩原さんの「9坪の家」の別名がふたりの娘さんの名前をとって「スミレアオイハウス」だというのは、驚いたなあ。我が家のふたりの娘も同じ名前なんです。
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新しい発見のある本、固定観念を覆してくれる本と出会うことは、人生の大きな喜びの一つだ、なんて言ったら、ちょっと大袈裟でしょうか?
今回も俳句の本。長谷川櫂『俳句的生活』(中公新書)より。
> 古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
この高名な句は通常「古池に蛙が飛び込む水の音が聞こえる」と解されているのであるが、これは切れ字「や」の働きを見落とした解釈である。(中略)
そうではなくて、この句は「どこからともなく聞こえてくる蛙が飛び込む水の音を聞いているうちに心の中に古池の面影が浮かび上がった」といっているのである。ここで「や」は現実の世界で起きている「蛙飛びこむ水の音」とは切り離された心の中に現実ならざる古池を浮かび上がらせる働きをしている。
うーん、なるほど。そういう読みがあったか。この句の初案が「山吹や…」であったのを、後に「古池や…」に改作した、などという成立事情も含めて考えると、確かに古池は眼前のものではないという解釈は、当然のことと言えるかもしれません。では、巷に行われている解釈は、間違いということになるのでしょうか?
たとえば、どこかの古寺の片隅に、いかにも芭蕉の句の蛙がひそんでいそうな池を見つけて、「古池や」という文句が思い浮かぶ。そして、その切れ字「や」の作り出す沈黙の空間に、現実ならざる「水の音」が響く、ということだってあり得ることだと思うのです。
この問題については、もう少し考えてみたいと思うけれど、こんなことをいろいろな人と語り合うことができたら、それこそ人生の大きな喜びだなあ。
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今日、『俳句って何?』っていう本を発見。
この本は、俳句に関するさまざまな疑問にQ&A形式で答える、というもので、正岡子規以降の「100年の俳句のすべてに応え得る本だ」というだけあって、その質問の数はざっと見たところ300くらいはありそう。
「なぜ俳句を作るの?」「俳句と短歌、俳句と川柳の違いは?」「季語って何?」「どうしたら俳句が上手になる?」というような難問にも、すべて1ページの半分くらいで答えを出してしまっているから、なかなか大胆。
たとえば、
>俳句はどう詠めばいいの?
の答えは…
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昨年読んだ『自転車ツーキニスト』(疋田智、知恵の森文庫)も、どこかに線を引いた記憶があるなあと思ってパラパラめくってみると、やっぱり引いてありました。
>自分にとっての初めての自転車を思い出してみるといい。私のは17インチの子供用の青い自転車だった。休日に親父が荷台を支え、転びながら自転車の乗り方を覚えた。幼稚園の年少組の頃だったと思う。「手を離さないでよ」と言いながら、初めてチョロチョロと走り出した時は嬉しかった。気づくと支えて走ってくれているはずの親父は、遠く後方で笑っていた。
遠く後方で笑っている親父、というイメージがなんともブンガク的で、いいなあ。僕の場合も、最初の自転車の思い出の中には父親が出てくる。たしか、中古の自転車を買ったかもらったかして、それに父親が白っぽいペンキを塗って、かえってかっこ悪くなってしまったのが、僕の最初の自転車だったと思う。
さて、この本で著者が一番言いたいのは、自転車は「何に負担をかけるでもなく」(つまりエコロジカルで)「自分の力で、人間の移動範囲を画期的に伸ばす。実にすばらしい」技術である、ということ。そして著者が望んでいるのは、自転車くらいの便利さ、自転車くらいの快適さが一番いいのだ、ということに人々が気がつき、「自転車的な社会」が実現することだ。
>今の不景気は、ひょっとしたら「撤退」するのにちょうどいいチャンスだ。便利さ追求から少し撤退してみるのだ。そしたら、本当に必要なものが見えてくる。本来の気持ちの良さが分かってくる。
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『超簡単!ブログ入門』(増田真樹、角川ONEテーマ21)は、題名から想像されるような単なるハウツーものではありません。ブログが社会を変えていく可能性について熱く語り、ホームページを作ろうと思いつつも一歩を踏み出せなかった僕の背中をポンと押してくれた、ありがたい本です。その「あとがき」に、音楽家坂本龍一からのこんなメッセージが紹介されていました。
>「子供が生まれることによって、自分の未来への視力が増すのです。
子供が20歳になった時の世界や地球を想像しながら、今を考え、行動しなければなりません。」
21世紀後半には地球の気温は3℃上昇する、というような話を聞いて、そのころまでは自分は生きていない、なんて思ってはいけないのですよね。
このごろは近くのものにピントが合いにくくなった僕だけど、「未来への視力」は失わないようにしなくちゃ。
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5~6年ほど前、自分の家を建てようと思い始めてから、住宅関係の本、建築家の書いた本を随分読みました。
中でも一番読んだのが宮脇檀。今回は『旅は俗悪がいい』(中公文庫)より。
>旅をしたいときにしたいよう、気ままにできればどんなにいいだろう。
そりゃそうですよねえ。
>けれど、そんなことが私たちにできるわけがなく、現実には日々の仕事に追われ、旅はするのだがあくまで仕事でさせられているというものばかり。
それでも、職場と家との往復ばかりの僕には羨ましい話。
>そんな日常の旅を嫌がっているだけだと、人生絶望的になるばかりだから、何とかそういったさせられる旅を積極的にしている旅ふうに作り替えてしまおうというのが私の旅への姿勢なのだ。だから、新幹線ではもっぱら窓の外の風景の中から町つくりの法則を探りだし…
これって、「旅」を「人生」に入れ替えても、全くその通りのことが言えるのではないでしょうか。「させられている人生」から「している人生」へ。ちょっと元気が出てくるでしょ?
僕は電車の窓の外の風景から俳句の材料を探そうとするんだけど、なかなか見つからないんだなあ。
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>そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないと出来ないはずです。突き詰めて言えば、「おまえたち、俺を見習え」という話なのですから。要するに自分を真似ろと言っているわけです。
昨年バカ売れした、『バカの壁』(養老孟司、新潮新書)を読んでみました。
たまたま通りかかった古本屋の1冊100円の棚に入っているのを見つけましたが、中を開くとピンクのラインマーカーで線がびっしり引いてあるので、それは棚に戻してしまいました。
その後、別の古本屋できれいなのを見つけて(300円でしたが)買っておいたのを、最近読んだのです。僕にとっては、脳の研究家である著者が、むしろ教育者の一人として教育について熱く語っている部分が印象に残りました。
>何か借りがあれば恩義を返す。そこには明らかに意味がある。教育ということの根本もそこにあって、人間を育てることで、自分を育ててくれた共同体に真っ当な人間を送り出す、ということです。そしてそれは、基本的には無償の行為なのです。
教師でなくても、親が子を育てるという行為も全く同じ事だろうと思います。
ところで、あのピンクのラインマーカーは、どんなところに線が引いてあったんだろうと、今さらながらまたあの古本屋を訪ねてみたい気がしています。
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