2006.04.27

芭蕉の開いた心の世界

 古池や蛙飛び込む水の音

 日本人の誰もが芭蕉の代表作の一つであることを疑わない「名句」。
 「古池」「蛙」「水の音」というあまりにもイメージしやすい平易な言葉だけから成るために小学生でも知っている「国民的俳句」。
 しかし、長谷川櫂以前にその本質を余すところなく的確に語りえた人はいたでしょうか。もはや彼の著作『古池に蛙は飛び込んだか』を読まずして、この句について語るわけにはいかなくなったのではないでしょうか。
 長谷川櫂は周到にその根拠を並べながら、この句が確かに「蕉風開眼」の画期的な句であることを明らかにして見せます。そしてさらに俳句を俳句たらしめている「切れ字」に対する深い洞察をも我々の前に示してくれるのです。(いや、切れ字「や」の本質に迫ることで初めて「古池」の句の実態が解き明かされたと言った方が、順序としては正しいかもしれません。)

言葉を切ることによって時間の流れを切り返し、その瞬間に心の世界を開く。それこそが「や」「かな」という切字の働きだった。切字はただ「大きな断絶」をもたらすのではなく心の世界を呼び起こす。(下線は引用者)

 それゆえ「古池や」の句は「蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ」と解釈されるべきである。「古池」は「古池」の代用では断じてあり得ない。「古池蛙が飛び込んだ」では現実をただ写し取っただけの平板な句になってしまう。「古池」は現実のどこかではなく、読み手の心の中に存在するのだ、ということになります。

 ところで実は、「古池」の句に対するほぼ同様な解釈は、すでに仁平勝『俳句をつくろう』(講談社現代新書)の中にも見られるものです(p25~p27)。
 長谷川の場合はしかし、「古池」の句そものものの解釈を示すに留まりません。「古池」の句が「蕉風開眼」の句と呼ばれるにふさわしいことを証明するため、それ以後の句も「古池」同様、「蕉風」の具体化であることを明らかにします。つまり、有名な「夏草や」「閑かさや」「旅に病んで」などの句についても「現実のただ中」の「心の世界」を見事に浮かび上がらせているのです。
 また、『去来抄』に記されたエピソード(「病雁の夜さむに落ちて旅ね哉」と「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」では比較するまでもなく前者が優れていると芭蕉が言ったこと)についても、「心の世界」をキーワードとすることで芭蕉の発言の真意が解き明かされるとともに、「去来的」なものと「凡兆的」なものの対立という、俳句をめぐる根源的思索へと誘われるのです。
 
 知的感興を覚えつつ芭蕉の作品の深い理解へと導かれる、これは類稀な名著なのではないかと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006.03.03

京都へ!

 京都へ、行って来ます!

 ザックの中には『京都「五七五」あるき』(池本健一著)を入れました。(ちょっと重いけど…)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.02.18

三者三様

 『俳句』(角川書店)の「鼎談合評」は今年の1月号から新しいメンバーになって、俄然面白くなったように思います。同じ作家の作品群に対して三者三様の俳句観を正面からぶつけ合うところがスリリングです。
 2月号では、今井杏太郎の「水を見ていちにちが過ぎ秋が来る」「砂山にのぼれば秋の空が見ゆ」のような作品をめぐって、肯定派の藤原龍一郎千葉皓史に対する否定派の出口善子という図式を鮮明にしながら、丁々発止のやりとりがみられます。(ちなみに、僕自身は肯定派の方ですが。)

まづは藤原龍一郎…
僕はこの今井さんという人の文体にものすごく興味を持っています。この人の言葉は浮力がついているように軽いですね。…しかも妙な臭みがついていない。…作品の言葉が読者の心の中で重さを持たないという不思議な言葉のつながり。独特の文体です。

続いて千葉皓史…
緩やかに詠むんだけど決して緩んではいないので、句に浮力がある。…言葉そのものは重くれないように、できるだけ吟味して、語彙を少なくしていらっしゃると思います。だから、ページを開いても全体に透明感があります。

一方、出口善子は…
すんなり行き過ぎると印象に残りにくいというんですか。べつにそんな印象に残らなくてもいいですけれど、何か食い足りないというか、お茶漬けの味というか、そんな感じがしました。…たったこれだけのことを言うために時間をかけるのか…。私なら食い足りないなという感じがします。

すると千葉皓史は…
ま、好みだから、好きになれとか嫌いになれとかいうのは必要ないのであって、要は私にはこういう句は魅力的だということです。出口さんがおっしゃるような近代文学的なものが俳句に求められた時代がありました。そういう近代文学はもう終わってしまったかなという思いがどこかにあります。

という具合で、結構はらはらさせられるような展開になるのです。最後は

>出口「時代遅れであろうと、先端を行っていようと、どの時代に流行ったものであろうと、自分がこれと思った流儀を貫けばいいのではないかと思っています。
 千葉「いや、そのとおりだと思います。

と議論は収束したかに見えるのですが、その先で雨宮きぬよの句をめぐって再び

出口「〈秋水の濁りて今日を急ぎける〉はなかなか意味が深いと思います。
 藤原「意味はありますね。
 千葉「僕は逆に、そこに意味があるのがいやなんです。

というやりとりもあって、火種はまだくすぶっていたことがわかります。根本に俳句観の違いがあるわけですから、歩み寄れるはずもないわけで、来月号以降も今回のようなやりとりが続くのだろうと想像されます。楽しみです。(読者投句欄で入選すれば、僕の句が取り上げられるかも知れないというもうひとつの楽しみも加わるんだけれど…)
 ついでながら、2月号の特集「本当に名句なのか?―評価の分かれる有名句」も、有名句に対する賛否両論を並べた、面白い特集です。これもまた、俳句の読みの多様性を示してくれています。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006.02.15

危うきに遊ぶ

 『俳句』12月号に発表され、僕のお気に入りとしてここに挙げておいた句の中の多くが、今月号(2月号)の「合評鼎談」と「俳句月評」で取り上げられていたので、興味深く読みました。
 まず、後藤立夫の「ボーナスの出たような顔しておりぬ」について、「鼎談」では出口善子

〈ボーナスの〉は危ない、きわどいところだなあという感じはしたんです。こちらの発言も危ないんですけれど、例えば「うがち、軽み、おかしみ」という川柳の三大要素が一応は全部、押さえてある。それと直喩ですね、これ。〈出たような〉ですから。「名人は危うきに遊ぶ」と言いますが、賛否両論出るところではないでしょうか。

と、作品に対してやや懐疑的な発言。一方で「月評」の櫂未知子は

とぼけた味わいのある句。年末賞与、すなわち〈ボーナス〉を詠んだ句は、経営不振ゆえの額の少なさであるとか、社内での地位の低さゆえのわびしさに終始しているものが多い。しかし、この明るさ! 日頃の苦労が報われたかのようなはればれとした表情をした人を目にしたのだろう。…この作者の句のあたたかさは貴重である

と賛辞を呈しています。「ボーナス」の句は確かに川柳とのボーダー上の危ういところに位置していると言えますが、俳句に笑いを求めたい気持ちの強い僕にとって、これはこれで非常に惹かれるものを感じるのです。
 今井杏太郎の「こすもすのをはりは草になりにけり」も僕を立ち止まらせた句でしたが、これについて「月評」には、

今までコスモスの終焉を考えたことがなかった。群れて咲くコスモスが風の吹くたびにどう揺らぐか、いや、風とコスモスの取り合わせは嫌になるほど見たから、そこをどう外そうか、とばかり考えていた。しかし、この句を見て驚いた。花も終わり、枯れの時期直前の〈こすもす〉の風情を描くこともなかなか素敵なことだと思った。

とあります。軽い筆致でありながら、コスモスに対する認識を更新させ得るだけの力を持った、魅力的な句ではないでしょうか。
  そのほか、僕がいいと思って挙げておいた「埋火となりて時間の余りをり」(後藤立夫)、「秋逝くと目を細めては森濃くす」(岡本眸)「どんぐりを拾つてをれば胡桃落つ」(橋本美代子)も、「鼎談」の中で取り上げられていました。
 ところで、さきほどの今井杏太郎の作品群をめぐる「鼎談」での三人のやりとりはなかなか読み応えがあります。それについては、次回書きたいと思います。おやすみなさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.25

深夜、「は」と「と」のビミョーな違いについて悩む。

 前回の記事で、『国家の品格』の著者・藤原正彦が、「論理」が万能でないのはその出発点を選ぶのは「感性」だからで、その「感性」において日本人が優れていることを、俳句を引き合いに出して論じていると書きましたが、そもそも俳句というものは、「論理」によって成り立つことを極端に嫌うようです。
 俳句の本を読んでいてよく目にするのは、この句は「理屈」だからダメ、「因果関係」だからダメという言葉です。例えば、昨年の『俳句』11月号誌上で、「第51回角川俳句賞選考座談会」が行われていますが、その受賞候補者の作品「天の路混み合つてをり残る鴨(荻原都子)」について、長谷川櫂が

天の路が混み合っているから鴨が残っているという、理屈の句ですね。こういうのはちょっとだめだ。

と言ったり、現代俳句に多用されがちな接続助詞の「て」「ば」に関して宇多喜代子が

私は「何々すれば」の「ば」が嫌い。こうすればこうなったって、因果をね。

と言ったり、という具合です。これらの「理屈」「因果」は、「論理」という言葉に置き換えることができそうです。俳句に詠まれた二つの事柄が、「論理」でつながってはダメ、さらに言えば、頭で作った句はダメ、ということにもなります。
 『俳句』1月号の鼎談では、「凌霄の百の落花や地震来るか(小林篤子)」という句についての評価が分かれています。出口善子は「斬新な感じ」「ノウゼンの花はもちろん地震とは関係ないのですが、こういう美しいものを見たときの、美しいものの中にある不安要素みたいなもので予兆を感じる。そういう感性を私は評価したい」と、これを「感性」による句と評価する一方で、千葉皓史はこれを「因果を感じなくもない」から採らないと言っています。つまりノウゼンカヅラの落花と地震との間に「論理」的な結びつきの匂いを嗅ぎとってしまうと、これは頭で作った句だからいただけない、という評価になってしまうのです。この句の場合は、なかなか微妙だと思いますが。
 ところで、先ほどの「第51回角川俳句賞選考座談会」を読んでいて、僕にはわからなかったことがあります。「雛の間に妻と離れて眠りけり(広瀬敬雄)」について、長谷川櫂が、「〈妻離れて〉となると理屈ですね」と言っているのですが、どうしてこれが「理屈」ということになるのか、今の僕にはどうも理解できないのです。「離れて」だったら理屈ではないということのようなのですが…
 「ビミョー」だと思いませんか?

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006.01.14

AならばBなる論理

 『国家の品格』(藤原正彦著、新潮新書)を読みました。
 本の帯に「跪く心を忘れない」とか、「武士道精神の復興を」とか、「家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛」などどいうフレーズが並んでいるのを見て、これはちょっと警戒してかからなければならない本かな、と思いましたが、読み終えてみて「言わんとしている内容にはおおむね賛成」という感想を持ちました。
 なるほど、と思ったのは次のような所。「論理」が万能でないという主張は、この本の柱の一つなのですが、その理由のひとつを次のように説明するのです。

論理というものを単純化して考えてみます。まずAがあって、AならばB、BならばC、CならばD…という形で、最終的に「Z」にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして「Aならば」という場合の「ならば」が論理です。…
 ところがこの出発点を考えてみると、AからはBに向かって矢印が出ていますが、Aに向かってくる矢印はひとつもありません。出発点だから当たり前です。
 すなわち、このAは、論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そして、この仮説を選ぶのは論理ではなく、主にそれを選ぶ人の情緒なのです。…
 情緒とは、論理以前のその人の総合力と言えます。その人がどういう親に育てられたか、…どのような小説や詩歌を読んで涙を流したか、…こういう諸々のことすべてがあわさって、その人の情緒力を形成し、論理の出発点Aを選ばせているのです。

 著者は、古来より日本人がこの論理の出発点を正しく選ぶための優れた情緒を持っているということを再三述べています。そしてそのひとつが自然に対する繊細な感受性であると言い、その例として芭蕉の句「枯れ枝に烏の止まりたるや秋の暮」と「古池や蛙飛び込む水の音」を挙げています。こうした句を成り立たせている日本人特有の感性は、世界に誇り得るものなのだ、日本人よ自信を持て、と著者は主張するのです。
 ところで、和田悟朗という俳人の作品に

AならばBなる論理秋の暮

という句があります。この作者もまた論理というものに対して懐疑的なのでしょうか。一句の中に理性と感性とを対比させて、理性の時代の終焉を予感させようとしているとも読めます。同じ作者の「蚊柱を連れて気圧を感じ居る」「消しゴムや自ら消えて夏果つる」というような句も、独特の感性を感じさせる面白い句だと思います。

 さて、話を『国家の品格』に戻しますが、この本、かなり好意的に受け止められているようで、いくつかのブログに目を通しましたが、たとえば「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけです。それ以外の意味での自由は、この言葉もろとも廃棄してよい」などという過激な発言にいちいち目くじら立てているコメントは見つかりませんでした。このことを国民が成熟している証として喜んでいいのか、憂うべき兆候と捉えるべきなのか、量りかねているところです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.12.21

樹木になる家

 パソコンのモニターを15インチから17インチに替えてみてわかったのですが、17インチで見るとこのブログの左右の余白が妙に広かったんですね。それでデザインを変更してみました。タイトル周りのオレンジ色も少し落ち着いた色調に微調整できるといいのですが…

 さて、今日は最近読んだ『新選高橋睦郎詩集』(新選現代詩文庫)から、印象に残った部分を抜き出してみます。

家といふものは、完全に地上的だ。柱の四肢によって大地に密接に結びついてゐる。大地の血管は土台石から柱の中に流れこみ、棟木や梁をつうじて、壁や屋根にひろがる。新しい家が年月とともに周囲の風景に馴染むのは、大地の血が家をかたちづくる木材、漆喰、瓦などの材料のくまぐまに行きわたり、家ぜんたいが大地から生えた、一種の樹木になるからだ。(詩集〈暦の王〉よりJuniusの一部)

 木と漆喰でできた家は、樹木として生長し、やがてまた大地に返るのでしょう。
 高橋睦郎は、ソネット形式、散文詩、短歌、俳句など、あらゆるスタイルを使いこなし、詩語としての日本語の可能性を示してくれています。面白いのは、俳句において有季定型という伝統的な型をきっちりと守りながらも、誰の亜流でもない独自の世界を現出させていることです。

山深く人語をかたる虻ありき

 葉となりし桜を愛づる荒びかな

 ふるさとは瑠璃の一閃つばくらめ

 みちをしへいくたび逢はば旅はてん(句集〈荒童鈔〉より)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.12.03

ハイクリング日記

 神奈川県内では境川自転車専用道路は人気のある コースで、僕も時々走るのですが、今日はその西側を流れる引地川沿いのコースを初めて走って来ました。

hikijigawa4 小田急桜ヶ丘駅近くから川に沿って走り始め、どんどん南下すれば最後には湘南の海に出るのですが、今日はここ、引地川親水公園まで来て引き返すことにします。

hikijigawa1  買って13年目になる愛車です。あっちこっちが錆びたり磨耗したりで、もう限界に近いような状態です。

 親水公園にはお弁当を広げたり、ごろんとして本を読んだりするのにちょうどいい場所がたくさんあります。

hikijigawa3  デイパックの中は、 地図とコーヒーの入ったポット、それから『俳句』の12月号。今日は寝転がって本を読むにはちょっと寒いけど、ベンチの上で、しばし読書です。今月号は僕好みの句が多いような気がします。

ボーナスの出たような顔してをりぬ
 埋火となりて時間の余りをり        後藤立夫

秋逝くと目を細めては森濃くす
 吐く息のうすうすと枇杷咲きそむる
 思ふときその人来たり冬霞         岡本眸

牧の柵果ては花野に入りゐたり
 どんぐりを拾つてをれば胡桃落つ      橋本美代子

hikijigawa2 ところで、僕は今まで「引地川」は「ひきちがわ」だとばかり思っていたのですが、現地に来て知ったのは、本当は「ひきじがわ」だったということです。中には「ひきぢがわ」と書いた橋もありましたが、これは仮名遣いを間違えたのか、それとも僕のように「ひきち」だと思って作ってしまった後で間違いに気がついて、仕方がないから濁点を追加したのか、わかりません。

sakaigawa2  帰りは途中からいつもの境川に出て、我が家に向かいました。朝は雨が降ったり、霰が降ったり、変な天気でしたが、夕方にはすっかり綺麗な青空になっていました。
 境川の土手にはコスモスがまだ綺麗に咲き残っていて、思わず自転車を停めてレンズを向けてしまいます。『俳句』12月号には、こんな句も載っていました。

sakaiwaga1

こすもすのをはりは草になりにけり
                       
今井杏太郎

 今度自転車で遠出をするのは、来年の春かな…

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005.11.25

蜜柑の樹、俳句の樹

 勤労感謝の日は、三浦半島の津久井浜観光農園で蜜柑狩りです。ここは昨年初めて行ったのですが、景色がよくて味もよかったので、「来年もまた来よう」と決めていたのです。

 蜜柑を二つほど食べて、お持ち帰り用の袋も一杯になると、僕はビニールシートの上に寝そべって、読書の時間。持って行ったのは、小沢昭一『俳句武者修業』(朝日文庫)。仲間たちと、「選評もなければ、互いに句を批判しあうということもない。ただ点を入れて、賞品のパンとかイワシの丸干しとかを交換し合っているだけ」という「やなぎ句会」を30年以上も続けてきた著者が、「本筋の句会」に押しかけて自分の句がどのくらい通用するか試してみようという楽しい趣向の本で、ぽかぽかと陽のあたる蜜柑山の斜面に寝転がって読むには、ぴったりです。

 さて、全部で10の結社の句会に乗り込んで「修業」を目論んだ著者ですが、その感想は…

この一年、毎月、各結社におじゃまして、それぞれの流儀に接してシゴカレテまいりましたが、どうも、それで上達するということにはならないようですね。…
 思うに俳句という大樹は四方八方に枝を伸ばして、それぞれの枝が、それぞれ繁っているのでしょう。だから、どれかの枝の繁みで、その繁みなりに句を深めればいい。結社の先生がたは、みな一流を立てておいでで、お弟子さんもその先生流のもとで精進しておられる。それで正解なんですね。チョコチョコあっちこっちと流派を経巡っても、それで「修業」にはならないものとよくわかりました。

 そういえば、蜜柑は樹によって味が違うようで、美味しい樹を見つけたら、その樹を集中的に攻めるのがいいみたいですよ! でも、その樹のてっぺんの方にある、一番美味しそうに見える蜜柑に手が届かないんだなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.11.10

いつもぎりぎり

 毎月10日は、角川書店『俳句』の読者投句欄の締め切り日。
 投句を始めてそろそろ3年。毎回3句作るのが実に大変で、もうやめてしまおうかと何回も挫折しそうになりましたが、一度やめてしまったらそれっきりになりそうなので、なんとか頑張っています。今回もようやく先ほど出来上がり、はがきを投函してきたところです。このところ“ボツ”続きなので、もっと真剣に修行(修業?)しなくちゃいけないかなと思っています。

 『俳句』の中では、「合評鼎談」と「俳句月評」を必ず読んでいます。この中から毎回いい俳句を発見することが出来るからです。次の句も、9月号の「鼎談」の中で見つけた最近の僕のお気に入りです。

てのひらに薄暑のけはい忍びゐる  鷲谷七菜子

家中の椅子みなちがふ竹の秋   川口真理

 こんな句が自分でも作れたら、と思います。

 ところで、10日の夜遅く投函しても、10日の消印を押してもらえるんでしょうか? そのことが気になりながらも、結局はいつもぎりぎりになってしまうんですけどね。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧