2006.04.13

世にも美しい文語文の魅力と危うさ

 藤原正彦の本をもう一冊。
 安野光雅との対談をまとめた『世にも美しい日本語入門』(ちくまプリマー新書)。もちろん、「世にも美しい《日本語入門》」ではなくて、「《世にも美しい日本語》入門」です。

安野 …その国の言葉が美しいと言えるのは、その国の言葉で書かれた書物がどれほどあるかということなのではないか、いやそれにつきると思い至りました。考えてみれば、私たちは、座して世界の文学や医学書などに触れることができるようになっています。
 藤原 まったく同感です。古くから珠玉の文学作品に恵まれた不思議な島国、もっとも美しい言葉の中に、私たちは生まれたのだと思います。

その「珠玉の文学作品」の一つとして二人が声をそろえて絶賛するのが森鴎外の『即興詩人』。その『即興詩人』について、藤原正彦は次のように言います。

ストーリーだけで言ったら、通俗小説です。それを格調高い芸術にしてしまう。文語それ自体のもつ高い芸術性と、森鴎外の天才ですね。彼の訳を見ると、日本語の豊かさが感じられます。筋書きは大したことはなくとも、人を酔わせるような文章があれば、文学として立派に成立する、ということを証明した作品でもあると思います。

 僕はまだ『即興詩人』を読んでいませんが、上で言っていることはそのまま鴎外の『舞姫』にも当てはまるのではないでしょうか。『舞姫』といえば高校の現代文の教科書の定番教材ですが、教室でこの作品を読むとき、主人公豊太郎の生き方に焦点を当ててしまうと、高校生からは「エリスを裏切った豊太郎は卑怯だ」「豊太郎は優柔不断な男で情けない」という感想しか引き出せないで終わってしまいます。
 この作品もやはり筋を追うよりも文語自体の持つ魅力に気づかせることを一番のねらいとして授業で取り上げるべきなのであって、何度も音読して文章そのものを味わうのでなければこの作品を本当に読んだことにはならないでしょう。これを現代語訳で読ませるのなどは、全くナンセンスな話です。「貧しきが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。」というような鴎外の文語文には、通俗的なことを言っていながら人を酔わせる不思議な力が確かにあります。
 しかしそれ故、文語文の復活を声高に叫ぶ風潮の強まりは、ある種の危険性を孕んでいるとも言えるでしょう。

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2006.03.30

二つの「愛国心」

 前回取り上げた『やっぱり京都人だけが知っている』の「あとがき」に引用されている次の一節が気になっています。ちょっと孫引きさせてもらいます。

「愛国心」という言葉で私が何を意味しているかといえば、それは世界中でもっともよいものと考えるけれども、他人に強制したいとは思わないような、ある特定の場所や特定の生活のしかたに対する強い愛情である。愛国心は、その性質上、軍事的にも文化的にも、守勢のものなのだ。―『ライオンと一角獣』ジョージ・オーウェル

 ここで言っている「愛国心」とは、次の「パトリオティズム」の方にあたるでしょう。

英語で愛国心にあたるものに、ナショナリズムとパトリオティズムがあるが、二つはまったく異なる。ナショナリズムとは通常、他国を押しのけてでも自国の国益を追求する姿勢である。私はこれを国益主義と表現する。
 パトリオティズムの方は、祖国の文化、伝統、歴史、自然などに誇りをもち、またそれらをこよなく愛する精神である。私はこれを祖国愛と表現する。家族愛、郷土愛の延長にあるものである。

 これは最近読んだ『祖国とは国語』(藤原正彦著)からの引用ですが、著者はさらに我が国でこのナショナリズムとパトリオティズムの二つを「愛国心」というひとつの言葉でくくってきたことが今日の「不幸」の始まりだったと言っています。
 そもそも「日本という国」と言ったり、「お国なまり」「お国自慢」と言ったり、つまりは「国家」も「故郷」も「田舎」も同じ「くに」なのですから、「愛国心」の意味に幅が生じるのは当然です。
 憲法、教育基本法をめぐる議論の中で、この言葉に対する解釈の食違いがさらなる「不幸」の始まりにならなければいいが、と思います。しかし、どう解釈されるにしろ、これが「強制」されるべきものでないことだけは確かです。

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2006.02.11

「なので」なのだ。

 このところ若い人が「なので」という言葉を接続詞的に使うことが急に多くなったと感じています。たとえば、

 「僕は将来英語を生かした職業に就きたいと思っています。なので、貴校の英語専攻コースを志望しました。」

 「今のままでは地球環境は悪くなる一方です。なので、私達は物を買うとき本当に必要かどうか判断することが大切です。」

という具合です。このような言い方は、ちょっと前まではほとんど耳にしなかったのではないでしょうか。僕は言葉に関しては保守的な人間でありまして(仕事柄ということもあるけど)、このような耳慣れない表現が気になって仕方がないのです。
 手近にある辞書をいくつかあたってみましたが、「なので」を項目として採用している辞書は見つかりませんでした。『日本国語大辞典』(縮刷版、昭和55年発行)の「なのだ」の項には次のような説明が見られます。

説明し言い聞かせる意を表わす。話しことばでは「なんだ」となることが多い。「だ」の活用に応じて、「なのだろう」「なのだった」などの形でも用いる。「なので」「なのに」は、接続助詞的な用法が主である

 「接続詞的用法」ではなく「接続助詞的用法」ということですから、「春なのに涙が出て来ちゃう」「もう歳なので無理はできない」のように、あくまでも文中に用いられることを言っているのです。ところが、「なのに」の方は『日本国語大辞典』では接続詞として項目を立てているのです。

な-のに《接続》(「それなのに」の「それ」が省略されたもの)前の事柄に対し、後の事柄が反対・対立の関係にあることを示す。それなのに。だのに。「よく寝た。なのに眠い」

 「なのに」を項目としている辞書はほかにもあり、同様の説明を載せています。「なのに」と「なので」の違いは逆接か順接かの違いでしかないのですから、「なのに」に続いて「なので」が接続詞的に使われるようになるのは、必然的な流れなのかもしれません。「なので」もいつかは接続詞として認知され、辞書にも採用される日が来るのではないでしょうか。
 (ところで今思い出しましたが、「なのにあなたは京都へ行くの? 京都の町はそれほどいいの?」っていう歌、昔誰かが歌ってましたよね。)

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